天翔し思い出
                                       
森 田 甲

 




京都航空機乗員養成所


 あれからもう60年、13期操縦生は昭和18年4月8日養成所に集合、59名全員が身体検査に合格した。入所の日から始まった週番は内務班の寝台の並び順で小林(道)が最初に当たりました。

 翌々日の10日に武道場において入所式があり、藤野所長から 「小林以下59名第13期操縦生性を命ずる」と告げられました。10日夜週番は交代となり、小林が下番し私森田が上番となりました。

 以前から軍隊は3日はお客様と聞いていましたが、11ひから本格的な養成所生活が始まりました。

 日朝点呼のため起床ラッパで運動場に飛び出せば、12期生から幼い本科生まで整列しておりました。点呼は13期生の順番になり「番号!」と号令をかけたが、番号はスムースに流れず途中で止まってしまいました。その後は何が起こったか思い出してもゾッとする。

 夜、鵜飼生徒長に呼ばれ、「週番のお前はなぜ舎前の草を取らせないか」と注意をされました。当時はそこまで気がつかなかったのが本音でした。

 大過なく1週間を終えて下番しましたが、誰に申し送ったか記憶がありません。1週間で時計のバンドがゆるくなったと日記に書いてあります。正確な記録も無く詳細には思い出せません。

 養成所在学中の9月1日に徴用で石川島造船所にいた弟が殉職したと連絡がありましたが、戦時中のことでありまことに残念でした。

 昭和19年3月15日、乗員養成所の卒業式を終え、急ぎ夜行列車でなつかしの伊那に向かい、翌朝家に着き、その日の午後には親戚や近所の方々との見送りを受け、伊那電鉄に乗りました。同じ電車に唐木も乗っており、浜松へと向かいました。


ジャワ島第35教育飛行隊

 浜松の中部113部隊に着くと大勢の同期が着いていました。夏服を支給され南方行きであることがわかりました。

 浜松では南方への飛行機の便がなく、金山伍長の引率により鉄道で立川に移動しました。同期入隊のうち13名、そのうち京都は渡辺と私であったが、航空技術学校に泊まり、そこで飛行機の便を待ちました。

 正確に記憶はないが3日か4日後であったと思いますが、MC-20輸送機2機に分乗し出発しました。富士山を横に見て飛行し九州新田原に着陸、燃料補給して日本を後にしました。

 台北に一泊し翌日屏東に前進し、再びそこで何日かの飛行便まちとなりました。またMC-20に便乗してマニラへ移動、一泊後ボルネオのクチンへと進み一泊しました。その後渡辺が凄い高熱を出した。この発熱はデング熱とかであった。毛布の上から押さえてやったが、ガタガタ震えていました。

 こんなことがあったが、翌朝出発してようやく目的地に近いジャワ島のバンドンに着陸しました。

    


 当時陸軍の輸送機(旅客機)MC-20は上級将校の送迎機で、兵隊の輸送は異例のようであった。各飛行場に着陸すると、飛行場司令官の将校が出迎えに出て、我々を見て驚き「なんだ、お前たちか」と言われることの連続でした。

 バンドンより鉄道を利用してスラカルタへ移動したのですが、大分遅れて3月29日に目的の第35教育飛行隊に到着したのです。

 先着の同期は、すでに真っ黒に日焼けして、開襟シャツから出ている旨が水ぶくれになっている者もいました。35教育飛行隊は戦闘の教育隊で比留隊、部隊長は垣見大尉でした。

 教育は97戦闘機と一式隼戦闘機を同時に使用しました。当然のことですが最初から単独の飛行となりました。「行って来い」の励ましの指示で、地上滑走から離着陸の訓練と進む。着陸の接地速度は100キロであったが、当時はもの凄く速く感じた。京都で乗った中練と異なり、戦闘機はまるで丸太にまたがって飛んでいるような感じがしました。

 戦闘の訓練は非常に厳しかったけれど、自分から希望して行った戦闘隊でしたから、精一杯頑張りました。教育飛行隊での実戦機の教育が終了したとき、ソロ王朝に招待され、王宮舞踊のスリンピーを見学、昼食をご馳走になり、ジャワ更沙のハンカチを戴きました。


スマトラの第9錬成飛行隊

 第9錬成飛行隊では戦技教育をうけました。基地はスマトラ島のジャングルの中のレンバクとラハトで行われました。飛行隊隊長は勝村少佐でした。戦技教育終了後にこの隊の隊付きとなりましたが、基地はラハトであり、渡辺賢一、印旛1期の倉田、古河13期の高山も一緒でした。倉田は戦後日本航空の機長となり、昭和天皇訪欧の機長を務めた人です。

 第9錬成飛行隊では、標的の大きな吹き流しを飛行機で引っ張って飛び、それに向かって射撃をして訓練をするのです。この射撃の腕前もぐんぐん上達しました。また、4機対4機の空中戦や単機戦は、倉田と積乱雲の下で腕を競ったのでした。

 戦闘機の飛行は、地図と時計と羅針盤それに自分自身の感が頼りの行動でした。単機で行動することが多く、緊張の連続でした。

 この部隊での任務は、特別操縦見習士官の教育と、パレンパンの防空でありました。のちに部隊長が戦死されたため第9錬成飛行隊はニューギニア生き残りの第77戦隊と統合されました。




シンガポールの第17錬成飛行隊

 基地はシンガポールのセンバワンに移り、昭南隼戦闘隊と呼ばれ、部隊長は高野少佐であったが、隊長転出となり井上少佐が隊長となり、昭和19年10月に第17錬成飛行隊となり、編成変えがあり、苦楽をともにしていた倉田ら将校、下士官の約半数の人員が北方要員として日本に帰りました。

 第17錬成飛行隊は、シンガポールの防衛と輸送船団の護衛が任務でした。敵の機動部隊が接近したとの情報が入り、特攻隊要員の命令が出て、前線基地に2回出撃しましたが、二度とも出撃は中止となり、今まで生き延びることが出来ました。

 私は渡辺と別行動のときでしたが、スマトラ北部で不時着したと聞きました。そこは設備が全くない不時着場であったため、基地から修理機材を運んで修理したうえ、40日くらい経って帰ってきました。

 しだいに敵が勢力を盛り返し、定期便と言って、毎日米軍のB-24コンソリ10爆撃機がマレー半島の東海岸に飛来すると聞いていました。彼らは爆撃をするでもないのに飛んでくるようで、多分偵察飛行であったでしょう。

 部隊のY少佐がマレー半島のペカン半島に不時着して負傷し入院していたが退院することになり、私が迎えに行くよ命令が出ました。55師団の直協機(キ-36)を借りました。師団では午前9時ごろをはずして飛べ、それに足の出ている飛行機は、敵は爆撃機であるが追い駆けてくるから気をつけるよう注意されました。

 そして部隊ではペカン海岸のY少佐の不時着機の状況を見ていくように指示されたので、早めに出発しペカンで不時着機を見てマレーのクァンタン飛行場に着陸しました。私は飛行機を俺タイ壕に入れて飛行場の本部に向かったが、本部に着かないうちに空襲警報と同時に、椰子の木の上がザワザワとして大風が吹いたようであった。

 とにかく驚きました。大きなB-24コンソリ爆撃機が地上掃射をしながら超低空を通過していきました。ヤレヤレ危ないところ助かったと思う間もなく、こんどは後方銃座から撃ってきました。このときは1回の攻撃で敵の定期便は帰っていきました。このあと急ぎ本部へ申告に行きましたが、そこで予想もしなかった方々に出会いました。

 京都でお世話になった鈴木好三教官と溝端教官がおられた。少年飛行隊の教官をしておられるとのことでした。私の軍曹の階級章を見て「早いなあ」の一言だけ言葉がありました。私はまた空襲を受けては危険と思い、急いでY少佐を乗せて部隊に帰りました。

 マレーシア東海岸のコタバルにいたときにもコンソリ爆撃機が飛んできました。Y少尉機の脚を修理してい時であった。突如空襲警報があり、Y機はその場から発進しました。私は急遽始動車に飛び乗り、私の飛行機に向かいました。

 敵機は、低空を飛んできました。機に離陸していたY機は何処を見ていたのだろうか、敵コンソリ機はY機の下にもぐり込んできたのでした。いつもと様子が違うのに気付いたのか、敵機は急旋回をして海の方に向かった。私は敵機を見失わないように気をつけながら、ゴトゴトと地上滑走して飛行場に出ました。

 離陸に移ったときには敵はすでに遠く、小さく見えていた。全出力で追い駆けましたが、追いつくことはできませんでした。低空に、小さなちぎれ雲が浮かんでいた日でした。

 昭和20年5月にシンガポールのセンバワンに移ったが、すでに2月頃からインドのカルカッタからB-29の連日の空襲が始まっていました。セレター軍港の浮きドックがその頃破壊されたと聞きました。5月頃からは輸送船団の援護や昭南防空の毎日でした。

 ピストで待機していると、「情報」「情報」「アナンバス電探(レーダー)」「○○度の方向○○キロ上がれ」と命令が下る。無線の電源を入れ各機直ちに離陸し、2機ずつ編隊を組み高度を取った。敵はレーダーを持っているのか、我々が邀撃に離陸すると急いで引き返していきました。「下りろ、下りろ」との命令で引き返して、着陸するのが毎日でした。


終戦

 何の用務の飛行であったか思い出せないのだが、8月15日、前進基地のコタバルから単機でセンバワンの本部の飛行場に帰った。全員が軍装に服装をととのえて本部へ集合するところであった。何事かと尋ねると、重大放送があるとの事であり、私も本部へ行きました。放送はザーザーと雑音がひどく、放送の内容は何も聞き取れませんでした。部隊長の説明では、「ポツダム宣言を受諾し、戦争は終わった」との事でありました。作戦は指示あるまで続行せよということで、コタバルへ帰りました。

 第9錬成飛行隊、第17錬成飛行隊ともに、若い私を一人前に扱ってもらって感謝しています。終戦近くなると、ボルネオは敵の手に渡り、敵戦闘機も襲撃してくるようになり、敵機動部隊もいつ現れるか、また昭南もイヨイヨかなと思わせる時に終戦となった。

 昭和20年11月、シンガポールの南のレンバン島で、野草を食べる生活を送り、21年5月18日に名古屋に上陸し復員しました。ジャワ王宮で戴いたジャワ更沙のハンカチに、大事なトカゲの財布を包んで荷物に入れ家に帰って探したが、無くなっていた。復員船の中で取られたらしい。


友人

 私の復員が遅くなっていたとき、倉田が私の家を訪ねてくれて、父母にいろいろ私の状況を知らせてくれた上に、彼の飛行帽を置いていってくれた。今も大切にしています。倉田は日本航空を定年退職して、現在も元気にしています。

 近藤が中日新聞航空部次長をしていた当時、家族連れで名古屋空港を訪れたとき、双発のセスナ411機で20分ほど名古屋上空を飛んでくれました。私と家内と弟夫婦一緒の飛行であり、私は副操縦席に座り、久々の感激の飛行でありました。弟の家内は7年前に他界しましたが、当時は健在でありました。今もその当時を思い出しております。

 戦後長年経ちましたが、戦争のことについては誰にも話をしていません。現在の若者は、残念ながら戦争のことを聞く耳を持ちません。今思えばあの戦争はいやな戦争だったけれど、汗を流し命をかけて働けたことや、得がたい友人が多く出来たことの二点がよかった。若い頃のあの3年間は、無駄な3年間ではなかったと思います。このあと余生は何時までと言えない齢になりました。皆さんどうぞお元気で、末永く過ごして下さい。


 平成16年1月1日発行の、
    「京養13期だより 第28号」に投稿されたものです。