気高きものへ
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おじいさんの頭を、ひっぱたいてやりたいと思ったことが、今までに何十回、何百回、何千回、いやもしかしたら何万回となくあったかもしれません。私が仕事で家にいなかった何年間かを除いて、ずっと一緒に暮らしていたわけですが、その間、会話が成り立つことはほとんどありませんでした。 私は長男で、跡取りという立場だったのに、高校を卒業して茅野市の会社に就職したのも、県立の福祉施設を辞めて千葉で会社を興したのも、どこかに「家を出たい」、「一緒にいたくない」という気持ちがあったからでした。最近でも、おじいさんとふたりだけになる機会はできるだけ避けていたし、隣り合わせになっている食卓も、できるだけ離れて座るようにしていました。これは私が一方的に感じていたことなのかもしれませんが、とにかく相性がよくなかったのです。 まだおばあさんが元気だった頃、先におばあさんがいなくなってしまい、おじいさんだけになってしまうことが恐怖でした。おばあさんがおじいさんとの仲立ちをしてくれていたので、なんとか家族がまとまっていたわけです。そういった面においては、おばあさんは一歩引いたような立場にいながら、おじいさんを上手にコントロールしていたと思いま す。そして、おばあさんが先にいなくなってしまうという恐怖の状態が、7年前に実際にやってきてしまいました。 おじいさんは、気の毒に思えるくらいかたくなな人です。それを人は「堅い人だ」とほめてくれる場合もありますが、趣味が仕事で、遊び心が全くなくて、思いついたらそれしか目に入らず、自分の思っていること以外は正しくないと思っている独特の価値観は、もはや堅物という表現が当たっているのでしょう。家族に何か言いたいことがありそうな様子は、一緒に食事をしているときから雰囲気でわかります。そして、相手がどう思うかを考えないまま言葉を発するから、それを受けた人に届くよりも鋭い形で、痛みを伴いながら突き刺さっていくのです。 おじいさんがこのような行動に出るようになったのは、生まれながらに持ち合わせていた性格の他に、ふたつばかりの要因があると思っています。ひとつは、組織の中で頭を押さえつけられることがなかったこと。会社の組織の中に身を置いている人ならわかると思いますが、自分本位の考え方で、自己主張ばかりしている人は相手にしてもらえません。だからといって上手に渡り歩くことを奨励するものではありませんが、自然と角が取れた人間へと矯正されていくのです。人生の多くの時間を職人である石工と、自分のペースでものごとを進めることができる農業に従事していたおじいさんは、社会の中で、集団の中で、揉まれるということが少なかったのです。 そしてもうひとつは、あの忌まわしい太平洋戦争です。農家の次男だったおじいさんは東京に就職していたのに、お兄さんが戦死してしまったことにより、あとを継がざるを得なくなったのです。だから、戦争の犠牲者だったともいえます。 19歳のときに志願し、京都の乗員養成所を出て、陸軍の「隼」という戦闘機のパイロットとなり、ジャワ・スマトラ・ボルネオ・シンガポールなどの南方を転戦して敗戦を迎えます。これは自分自身でも言っていたことですが、軍隊の、極端な言い方をすると「人を殺める」訓練を受けてきた人に、特に現代の若者に見られるような「甘ったるさ」が残っているわけがありません。 一度は東京に就職したおじいさんは、戦死した兄に変わって「大羽場」の跡取りにならずを得ない立場になってしまいます。戦後の物資のない時代に、そのうえ貧乏な家を、継がなければならなかった父はたいへんな苦労をしてきました。私が小さい頃、農作業のお手伝いをするために行った畑や田んぼは、ほとんどが他所のものを借りている状態でした。おじいさんは職業訓練校に行って石工の技術を習得しました。河原で花崗岩を割って石積みをするための石を作ったり、それを使って石垣を積む仕事に従事していました。 私は、高校からの帰り道、飯田線の大田切駅を降りて自転車を走らせて、大田切川の河原に寄るのが日課のようになっていました。そこで、おじいさんが石割りをしていたからです。花崗岩の玉石に「ノミ」で穴をあけて、そこに鋼鉄の「ヤ」を入れて「ヤジメ(ハンマーの大きなやつ)で叩くと、玉石は真っ二つに割れ、それをさらに加工して石積み用の石にするのです。1個いくらという契約を土建業者として稼いでいたわけです。私も見よう見まねで花崗岩に穴をあけてみたのですが、それは容易(たやす)い作業ではありませんでした。 高校生よりもっと小さいときには、朝、鍛冶屋のお手伝いをよくしたものです。石割りに使う「ノミ」や「ヤ」がすり減ってしまうために、真っ赤に熱して柔らかくしたものを叩いて形を整えた後、焼き入れをするものです。私の役目は、燃えているコークスに空気を送り込むための、鞴(ふいご)を回すことでした。石工というのは、たいへん体力を使う仕事ですが、その至る所に高度な技術が必要とされます。「アルプスがふたつ映えるまち」駒ヶ根市の、天竜川の東に位置する東伊那区では、屋号の「大羽場」よりも、「石やさ」の方が通りがいい時代がありました。そんなおじいさんが積んだ石垣が、地区のあちこちにまだ残っています。 小学校の頃でも、学校から帰るといつも「○○に行っている」というメモが置かれていました。つまり、田んぼや畑にいるから、お手伝いに来いということです。そこには、「お焼き」が添えられていました。「お焼き」といっても、小麦粉に水を入れて捏ねたものをただフライパンで焼いただけで、具が入っているわけではありません。それでも、舌で感じるかすかな甘さが、空腹を満たしてくれました。 それから高校を卒業して家を出るまで、そしてまた帰って来て家から仕事に通っているときも、私はおじいさんとおばあさんの野良仕事のお手伝いをするのがあたりまえのこととなっていました。山と山の間にある小さな田んぼを耕し、稲の苗を植えて刈り取るのですが、そこから道まで担ぎ出すしか方法がないような辺鄙(へんぴ)な場所ばかりでした。稲は手で刈って、ひと束ずつ藁(わら)で縛ってハザにかけるのがいつも遅くなってしまい、月明かりの中で作業をしたことを、今でも昨日のように思い出すことができます。 養(かいこ)に家の中は占領されていました。蚕棚の篭の中で、蚕たちは音を立てて桑の葉を食べていました。その棚のすき間に布団を敷いて寝るわけですから、まさしく「お蚕様」と同居している状態でした。上蔟(じょうぞく)して赤く透き通るようになった蚕は、繭を作る位置を決めるまでうろうろ歩きまわるため、重さのバランスを崩した回転蔟(かいてんぞく)はぐるんと音を立ててまわり、そのたびに糞やおしっこがバラバラと落ちてきました。足の裏にへばりついた蚕の糞の感触は、忘れようとしても忘れられるものではありません。 私が「餃子」という食べ物の存在を知ったのは、中学生になってからのことです。玉子を食べられるのが、何か特別のときくらいですから、当時の食糧事情がわかろうというものです。たまに買う奴豆腐は6等分しておかずにし、バナナは3等分したものを兄弟で取り合うようなありさまは、現代を生きている立場からみると、滑稽な動作のように映ってしまうことでしょう。何かお祝い事があると、庭で飼育していた鶏をおじいさんが料理し、それを家族みんなで食べるのが、唯一のごちそうといえるものでした。その鶏にしても、腸を剃刀で割いて糞を出し、それを洗ったものさえ煮て食べるような状態です。私はいつも、鶏の頭を貰い、それを焼いたものから脳みそを掻き出して食べていました。 小学校に学級費を持っていかなければならない日に、母は、すぐ近くにあるたばこ屋を営んでいた実家に、お金を借りに行ったのを、子供心に覚えています。部屋と屋外とを隔ているのは障子紙1枚で、その穴の空いたところから、寒風が吹き込んできました。天井のない部屋では、雪が降るとそれが入ってきて、枕元が白くなるほどでした。「勝は貧乏を経験しているからそれが財産だ」とおじいさんは言っていましたが、本当にそうかもしれません。 2011年に、長野県が行った「信州型事業仕分け」に、私が仕分け人として選ばれたときには、「勝がテレビに出るで見てくれや」と、あちこちに電話をかけていました。耳が遠くなって人の話がよく聞き取れなくなっているのにもかかわらず、松本で行われた「事業仕分け」の会場まで出かけ、最前列に座ってその様子を見ていました。そのあとでつぶやいた言葉は、「勝はこれで親を越えた」というものでした。 2012年の秋、渋柿の皮を剥いていたおじいさんは、それを途中で投げ出しました。どうやら、体がついていかなくなった様子でした。それ以来、外に出ることはほとんどなくなり、居間で横になっいるだけになり、私が野菜作りや庭の草採りをするようになったのです。それは、「俺がやらにゃあ野菜も作れん」と言い出しそうな、じいさんに対する、意地みたいなものが支えになっていました。ある人が、「上手に野菜ができているねえ」と言ったところ、おじいさんは、「俺がやりゃあもっとうまくできる」と言ったそうです。 渋柿を干すため に作ったビニール ハウスの中には、 皮を剥いた柿を吊 すための鉄骨の 骨組みがありま す。一回だけ、も う思うように体が 動かなくなったお じいさんの指示に 従って、それを組 み立てる作業を手 伝ったのですが、 何種類ものジョイントを組み合わせて作られた骨組みは、ほんとうによく計算 された構造になっていました。このような几帳面さが、おじいさんの持ち味で した。その鉄骨 は、干し柿が完成 するたびにバラさ れて、また翌年の 秋に組み立てら れていたのです が、一昨年から は、「もうそのま まにしておけや」 と言われたため に、解体せずにそ のままの状態なっ ています。 野菜作りが素人の私は、そのノウハウをおじいさんに教えてもらえばいいのですが、「やる気があるのなら聞きに来い」というような言われ方をされてしまうと、意地でも聞くものかと思ってしまうのです。そして、親戚のおじさんやおばさんのところに、わざわざ教えを乞いに行くのです。何度となく、素直な気持ちにならなければと思うのですが、いつも難しそうにしている顔を見てしまうと、声をかけられなくなってしまいます。 振り返ってみれば、私の行動は、おじいさんに何か言われたくないために、思っているだろうことを先回りして実行するするといった、そんなパターンの繰り返しだったような気がしています。そういった意味では、結果として、私が乗り越えなければならない 「壁」になっていてくれたのでしょう。親のことをライバルだなどと位置付けてはいけませんが、私の意識の中では絶えず張り合う仲でした。だから、最近の「何も言わない」おじいさんには、逆に物足りなさを感じています。 「親孝行したいときには親はなし」と言われています。私に4人いた親もおじいさんひとりになってしまい、親孝行をしなければいけないと思うのですが、そしてその機会がないわけではないのですが、なぜだか素直な気持ちになれずに、優しい言葉のひとつもかけてあげられません。最近思うのですが、その理由のひとつは、私とおじいさんに共通する部分が多いから、どこかで自分自身を投影している気持ちになるのではないかということを感じています。つまり、自分の中の嫌な部分が、おじいさんを通じて見えてしまうからなのかもしれません。 おじいさんの従兄弟が、私を「評価」して言った言葉がずっと頭の中に残ってます。それは、「決してお前さんが偉いんじゃなくて、それはおじいさんが偉いからだ…」というような内容でした。人類は、原始の時代から、連綿と遺伝子を受け継ぎながら生きてきました。ひとりの人間の存在は、あるとき突然生まれたのではなく、いろいろな人たちの想いを抱え込みながら、この世に生を受けたわけです。だから、私も、おじいさんの想いをきちんと受け止めながら、これからの毎日を生きていくことでしょう。 2014年 3月 1日 もりたまさる |