かけけがえのないもの
                            

 おばあさんが入院している病院の内科の担当医師から、大阪にいた私のところに電話がかかってきたのは6月27日のことでした。できるだけ早く家族の人に知らせたいことがあると言うのです。今回は肺炎で熱が出て入院することになったのですが、電話ではただの肺炎ではないのだと言っています。私には次の日も仕事が入っていたので、翌々日の朝、詳しい話を聞くことにしました。

 27日に知らされた病名は「ガン性リンパ管症」、肺のリンパ節を通じてガ
ン細胞が入り込んだのだということでした。見せてもらったCTの画像は所々が白くなり、かなりの部分が冒されているのがわかるものでした。この状態だと、病状が急変する恐れがあるから、家族に早く知らせたかったのだと言うのです。「どのくらいの進行速度なのですか?」と私が質問したところ、早くてひと月、もっても3ヶ月の命だという、家族にとっては考えてもみなかった展開でした。

 ではどこからガンが転移してきたかですが、ちょうどその日の昼に2回目の胃カメラの検査結果が出ることになっていました。診断の結果は末期ガン、この状態だと全身に転移している可能性が強いというのです。おばあさんが体調の異常を訴えはじめたのは半年前、真っ先に実施したのが胃カメラによる検査でした。それは今回入院したところとは別の病院で行ったのですが、そのときは何も異常がないとの診断だったはずです。

 おばあさんが入院した伊那中央病院は、5月に私が胃ガンの手術を受けたところです。おばあさんは、「まさる君のガンを見つけた先生に診てもらいたい」と言って、私が入院する少し前から通い始めました。初診のときには、かかりつけの病院の紹介状と前の病院で検査をした胃カメラのデータを持っていったから、新しい病院では胃以外の検査を実施してくれたのです。大腸の内視鏡による検査でも、内臓のCTによる検査でも異常はみられませんでした。胃については、異常がないという結果があったため、再検査をすることをしなかったのです。

 どこにも異常がないと言われても具合が悪くて、ご飯が喉を通らないためやせ細る一方のおばあさんは、どうしても胃の再検査をして欲しいとおじいさんに言い続けていたようです。そうはいったって現代医学で異常がないと判断されたのです。再検査など必要ないと誰だって思うことです。今回は、おばあさんの執拗な希望を医師が受け入れてくれて、その病院では初めての胃カメラによる検査をしてくれたものでした。その結果が末期ガンとの診断。81歳にもなる老齢者が、半年程度で異常がない状態から末期ガンにまで進行することがはたしてあるのでしょうか。

 私の胃に8ミリ足らずの初期ガンが見つかったとき、「何かの間違いじゃないですか?」と訊いた私に対して、「現代の医学でそんなことはありません」と自信ありげに答えたじゃないか。おばあさんの体重が減った原因がわからないから説明して欲しいと言っても、もう減るのは止まっているから大丈夫だって言ったじゃないか。どうしていろいろな角度からその原因を突き止めることを病院はしてくれなかったのだ。

 病院の診断結果を信用していた私は、どこにも異常がないのに衰弱するばかりのおばあさんを何とか救おうとして、うつ病の解説本を購入してきました。その本に書かれている内容は、うつ病にかかりやすい人の背景から、表面化してくる症状までそっくりそのままでした。いろいろな人にどの病院がいいか訊いたり、淳は職場の隣にある病院を訪ねたりして、精神科の診断を受けることになりました。精神科の医師の診断は、典型的なうつ病であるとのこと。そのときは抗うつ剤を処方して貰い、また来週通院することになっていました。
 
 時期を前後して、動けない体を抱えているのに無理をしてお湯を沸かそうとしていたおばあさんは、その熱湯で両足にかなりひどい火傷を負ってしまいました。かかりつけの病院でその治療をしているうちに発熱が生じ、肺炎を起こしているということで今回の入院になったわけです。入院したのは6月24日の土曜日でした。おばあさんは入院を嫌がっていたけれど、私はこれできちんとした治療をすることができると安心しました。そして、火傷が治れば退院することができるとばかり思っていました。

 癌の告知を受けてからのおじいさんは気が狂わんばかりの状態でした。この半年間ずっと通院を続けてきて、一貫して異常がないと言われ続けてきたのに、突然余命1ヶ月と言われたわけです。当然納得できるわけがないし、簡単には受け入れられがたいことです。そばについていた者が何にもしてやれなかったと言って、自分を責めていました。淳は、自分の耳で聞かないと納得できないからと、仕事を休んで医師の説明の場に立ち合いました。雅ちゃんと淑は、想定していなかった出来事に、泣き崩れるばかりでした。

 おばあさんにガンのことを知らせるかどうかの判断はおじいさんに任せました。ガンを見つけて欲しい一念で病院に通い続けたおばあさんには、胃にガンが見つかったことを知らせるのがいちばん自然だと私は思ったのです。そうしないと、今まで一人で苦しんで来たことに対するつじつまが、おばあさんの中で合わないではないですか。その上で自宅で治療することを希望するのだとしたら、それを受け入れてやりたいとも思っていました。

 積極的な治療方法としては、外科的手術、放射線治療、抗ガン剤の投与があるということでした。外科的手術はもう体力がないから無理で、放射線治療はガンが全身に散ってしまっているから現実的ではなくて、抗ガン剤による治療は副作用が心配でした。消極的な治療は、痛みを和らげるとか酸素吸入を施すとか行ったものですが、いずれもガンの進行を食い止めるものではありません。

 おじいさんの決断で、7月3日の日に、先生がおばあさんに本当のことを話してくれました。胃に小さなガンが見つかったから、その治療をしていくこと。肺炎の方が少し悪い状態になっているから注意が必要なことなどです。おばあさんは、ガンのことは家族には内緒にしておいて欲しいと言ったそうです。ここに及んでもまだ、家族に心配をかけまいとしているのです。それでも、気持ちが楽になったためか、その日のおばあさんの調子はすこぶる良かったといいます。しかし一方では、「今日になって一段と衰弱したから、今晩が峠になることも十分考えられるので、泊まる準備をしておいてください」と担当に医師に言われました。

 大阪からの帰路の途中で淳から「今晩が峠になるかもしれない」という内容のメールを受けた私は、その晩は病院に泊まり込むことにしました。着いたのが夜中になってしまったので、4人部屋の病室に入っていくことはしなかったけれど、次の日の朝おばあさんは、「まさるがどこに泊まるか心配だったけれど、休憩室で寝ることになったことを看護婦さんから聞いたので、やっと安心して眠れた」などと言うのです。この場に及んでまでなお、人の心配ばかりしている。そんなおばあさんの顔を見ているとまた涙が込み上げてきて、いったん病室を出てからおばあさんには見えないところでひとしきり泣いてしまいました。

 付き添いをしている西尾のおばさんに、いろいろなことを頼んだようでした。外の冷蔵庫には、冷凍したヨモギが入っているけれど、もう作れないから貰って欲しいとか、どこかから貰った今川焼きがあるから食べて欲しいとかいった内容です。そして、仏壇の引き出しに写真が何枚か入っているから、どれかを選んで使って欲しいなんてことも頼んだそうです。4日の日は、会いたい人の名前を次々に口にし、駆けつけてくれた人たちと話ができて、「もう思い残すことがない」つぶやきました。「今夜泊まりで上田に行くから、明日の晩まで待っていて」と私が言うと、「わからない…」と首を小さく振りました。

 5日に上田から帰ってきたときのおばあさんの様子は、痛みを訴えたため点滴の中の痛み止めの薬を徐々に強くしたそうで、眠りこけていました。その顔はどす黒くむくんで、もう目を覚まさないだろうことを予感させるものでした。

 おばあさんが体に異常を感じ始めたのは1年も前の頃からだったようです。そのときは、自宅が増築の最中で、毎日お茶を入れる用事があったから我慢をしていたらしいのです。夏が過ぎて秋になると、こんどは渋柿の皮を剥いて干す仕事が終わるまでと思ったようで、胃の検査をするのが遅れ遅れになってしまったものです。いつも、家族に心配させまいという気持ちが働いていたため、なかなか打ち明けるということをせず、11月にやっと胃の検査を受ける運びになったのですが、その結果はどこにも異常がなかったのです。今から思うと、そのときには、おばあさんの胃ガンはかなり進行していたと思われます。

 急速に病状が悪化していくため、その都度家族の者は集まるように言われました。酸素吸入器の中でしている荒い呼吸は、もはやとぎれとぎれの状態でした。「おばあさん!」って呼びかけるとかすかな反応を示すけれど、それに言葉で答える力はもはやありません。余命1ヶ月から3ヶ月と言われたのに、たった1週間で死と直面するようになってしまったのです。薄く開いた目は焦点が定まらず、もう何も見えないのかもしれません。胃液が逆流してくるため、頻繁に口と鼻のつまりを除去してやらなければならない状態でした。3人の孫たちは精一杯看病をしていました。途中で感極まって泣き出したり、瞳にいっぱい涙を浮かべたりしながら、最後のおばあさん孝行をしました。そうだよね、みんなおばあさんに育てて貰ったようなものだものね。だからよけいに悲しいね。

 おばあさんは、家族や親戚の人たちに見守られて、7月7日に息を引き取っていきました。入院をしてから2週間目、家族がガンの告知をされてから8日しか経っていませんでした。心残りと言えば、おばあさんがあんなに訴えていたのに、体の異常を見つけてあげられなかったこと。おばあさんの言うことが全部正しかったのに、それを受け入れてあげることができなかったことです。でも、おばあさん自身は幸せだったと言っていたから、思い残すことは何もないと言っていたから、それだけが救いです。今思えば、親子ふたりで胃ガンを患っていたことになります。そして、おばあさんが、私の分まで背負って逝ってしまいました。

 おばあさんのすごいのは、入院中も涙ひとつ見せなかったこと。きちんと自分の運命を認識して、それを受け入れていたことです。息を引き取る瞬間に、もう開かなくなってしまった目にうっすらと涙をにじませたけれど、あれはきっとうれし泣きだったんだね。おばあさんの生き様は、まわりの人たちに勇気を与えてきました。お見舞いに来た人たちの方が、逆に励まされているようなものでした。

 私は、生まれてからおばあさんのそばにほとんどずっと一緒にいたから、親孝行もいっぱいできたと思っています。そういった意味では悔いはないけれど、もっと、もっと、もっと、ずっと一緒にいたかった。おばあさんの顔を見て思うことは、なんて純粋な瞳をしているんだろうということ。心の中身がそのまま現れているような、澄み切った子供みたいな目をしています。私も、おばあさんみたいに上手に歳を積み重ねていきたいと思っているよ。

 おばあさん、長い間ありがとう。もう何も心配はしなくてもいいから、ゆっくり休んでください。ここに集まったたくさんの人たちも、みんなみんなおばあさんに感謝しているよ。本当にありがとうね、おばあさん。

                 2006年 7月 9日 もりたまさる

    ※ お葬式における喪主の挨拶です。