顧客から、社会から

    信用されるメーカーになるということ   (上)


                                「プレス技術」 4月号  日刊工業新聞社
 
 「コンプライアンス」とは、一般的には法令遵守のことだと定義されている。法律で決めら
れた規則を守ることが、企業としての最低限の社会的な役割であるから、それを破った場合は
糾弾されても当然のことなのであろう。しかしながら、企業が、単純に法律を守ることにばか
りに汲々としているとしたならば、そしてそれを原則論として押しつけてしまっている場合に
は、社員の自発性までも押さえつけてしまう結果になり、硬直化した柔軟性に欠ける組織が作
り出されてしまいはしないだろうか。このような観点から捉えるならば、「コンプライアンス」
の問題は、企業のあり方そのものが問われるような要素をいっぱい含んでいると言える。なぜ
ならば、本当の「コンプライアンス」とは、法令を守ることだけを徹底することだけではなく、
その法令の背景として存在している社会的な要請にきちんと応えていくことこそが、企業が本
来果たさなければならない役割であると思うからだ。
 
住宅の耐震強度が不足している
 
 ホテルの耐震強度が不足していた問題は、利益の追求を優先するあまり、そこに入居する人
たちの安全性を無視して、設計の段階から強度計算が規定に満たないのにもかかわらず、少な
い建築材料で構成させるといった、明らかに意図的な「コンプライアンス」違反である。もっ
と俗っぽい言い方をすると、お客に対して「ごまかし」をしたことになるが、このごまかしは
いつまでもばれないものではなく、少し大きな地震に遭遇すれば、建物の崩壊という形で明ら
かになってしまう。事実、地震に合わないまでも、壁には亀裂が発生し徐々に進行していたと
いうではないか。
 このように、やがてはばれることをどうしてしてしまったのかであるが、ある事例の場合は、
ホテルの建設を発注した業者からの強いコストダウンの要求があったとされている。そして鉄
骨の削減を暗にほのめかされていたとしたならば、もしそれを拒否した時に起こることを想定
すると、受け入れざるを得なくなることも理解出る部分はあるのではないだろうか。つまり、
「顧客の要請」を受け入れなければ、仕事がなくなってしまうかもしれないのである。そんな
切羽詰まったときに、「コンプライアンス」をどの程度意識できるのだろうかということは、
現実の問題として疑問である。
 住宅建築の最終的なお客様は入居者だから、そこで暮らす人たちのことを最優先に考えなけ
ればならないし、規制を遵守することを条件にして与えられた建築設計士の資格であるから、
「コンプライアンス」を無視するなどということはとんでもないと息巻いてみても、この問題
の根本的な解決にはなってこない。住宅の建築を始めるにあたっては公的機関の確認が必要で
あるのに、すでに建築が終了して30年以上も経過しているような住宅に対しては、耐震強度
の問題が問い直されることはない。建築時の状態が永久に維持されているというのなら別であ
るが、その多くは時間の経過と共に確実に劣化していくことであろう。つまり、今地震が発生
した場合、崩壊するだろう住宅がいっぱいあるのにもかかわらず、いつまでも建築に着手する
前の確認しかなされないのである。
 今、耐震強度の不正を見抜けなかったことに対する処置として、確認申請に対する審査の内
容が変更されたことにより、なかなかお役所の許可が下りずに、住宅建築に関連する企業の仕
事が激減してしまっているという。このように、「コンプライアンス」の基準は、時代の変化
と共に変わり続けていくものなのである。それであるのにもかかわらず、「コンプライアンス」
の求めている本質を抜きにしておいて、その基準の数値だけを捉えていたならば、そしてそれ
を守ることだけが「法令遵守」を履行することになるといった方向を企業の中に取り入れたと
するならば、それはゆがんだ方向に進んでしまうだろうし、冒頭にも述べたような企業の硬直
化を加速させるだけに終わってしまうことだろう。
 
期限切れの原材料を使っていた食品工場
 
 「食の安全」を根底から覆す事件に発展した例をあげ始めたらきりがないが、消費者にとっ
ては極めて身近な問題であったから、その関心度も高いために、マスコミの報道もエスカレー
トしていったようだ。
 原材料の生産地や構成を偽っていたり、消費期限切れの材料を使用していたり、ひどいのは
賞味期限切れの製品を回収して、ラベルだけを貼り替えただけで再出荷されていたものもあっ
た。これらの事例に共通していることは、いずれも企業ぐるみの対応であったことである。問
題が明らかになった当時は特定の社員の判断でなされたとの発表がされた場合も、原因が解明
されていくにしたがって、上司の指示であったり経営者の判断が関与している事実が明らかに
なってきている。釈明の記者会見の様子をテレビなどで見た人は、「あの経営者なら無理もな
いな」と、きっと思ったことであろう。言い訳と責任転嫁のための会見は、見ていて気持ちの
いいものではなかった。
 ひと口で「企業倫理」が低下しているというけれど、一方では継続して利益を上げ続けなけ
ればならない企業が、コストの負担が明らかに大きくなってくることがわかっているのに、
「コンプライアンス」最優先することがはたして可能なのであろうか。「不祥事」を起こした
企業は、それが社会問題になることによって、事業の継続さえも不可能になってしまう。そん
なに大きな問題に発展する可能性があるのなら、絶対に法の定める規格を守ればよかったと思
うのは事後だから言えることで、毎日の生産活動を効率よく行おうとしている現場では、「コ
ンプライアンス」は最優先課題にはなかなかなりにくいのである。
 たとえば家庭生活の中で、まだ十分使えるであろう食材が目の前にあったとする。普通の感
覚からすると、もったいないからなんとかして活用する方法はないものかと考えることであろ
う。生ものであったなら、火を通せば食べられるのではないかなどと考えるかもしれない。そ
こに作用する判断の基準は、それを食べることによって、健康に影響を及ぼすかどうかである。
それなのに、そのような活用の方法を探る前に、消費期限切れだからと割り切ってごみ箱に捨
てることができるであろうか。
 法律で定める消費期限には、人間に害を及ぼすかどうかの十分な裏付けがあるのだろう。と
ころが、それを扱う人たちにその実感がないとしたならば、「コンプライアンス」を守る行動
は完全には定着していかない。つまり、なぜ期限切れの材料を使ってはいけないのかという明
確な根拠が、日常それを扱っている人たちにはないのである。したがって、経営者や上司の指
示に対して、一度は疑問に思うかもしれないけれど、最終的には押し切られてしまう。
 もうひとつの背景としては、企業の中では上司の指示に従っていれば、個人の責任までは追
及されないという心理が作用しているだろうということである。それが一社員であっても、消
費者に食材を供給する立場にあるものとして、その安全性を確保するためには消費期限が譲れ
ない条件であるのならば、絶対に見逃せることではないのにもかかわらず、どこかで妥協して
しまっているということになる。このような現状から、企業が「コンプライアンス」を保障す
るためには、「決められたことを守る」ことを徹底するしかなくなってくる。そのような取り
組みでは、いつまで経っても魂の入った「法令遵守」にはならないのではないだろうかという
ことだ。
 
コンプライアンスを確保する必然性
 
 法律で定められた制度というのは、その内容がそのときの社会の実情に合致しており、その
上で企業の側に法律を守るという意識が定着しているのならば、その法律を基軸にした運用が
ゆるぎないものになり、当然結果を伴ったものになるはずである。つまり、十分機能している
と判断できるわけだ。ところが、これだけ頻繁に企業の「不祥事」が発生している背景には、
法律と経済活動との間にズレが生じてしまっていることがあるのではないのだろうか。
 食の問題を起こしたある食品会社のホームページに、「ISO9001を取得していることが安全性
の根拠です」との宣言を見つけたときには、正直言ってがっかりした。ISOの認証は品質管理の
仕組みが出来上がっていることに対して与えられるものであって、その通りに運用して結果に
結びつけるのは企業の側であるのにもかかわらず、こんな程度の認識しかできないようでは、
社内のコントロールは到底できていないのだろうと、逆に納得したくらいだ。
 企業が具体性のない抽象的な形で法令遵守の宣言をし、上っ面をなぞっただけの形を作って、
その実行を社員に強制しようとしても、それは本当の意味での力にはなり得ない。なぜならば、
そこには必然性が伴っていないからである。必然性がないというのは、企業の側にある意識と
して、「法令を守らなければ社会問題になる」ことから逃れることしかなく、顧客や消費者や
社会から認められる企業になろうなどという、能動的な意志が背景には存在しないことを意味
している。したがって、そのような企業がいくら表面上の体裁を整えたとしても、いつかはほ
ころびが生じてしまうのだと思う。
 
法的責任と社会的責任
 
 法的責任を果たしていれば、当然社会的な責任を果たしていそうなものだが、そうはいかな
いところにこの問題の根の深さがある。法的責任というのは、企業が社会的な責任を果たす上
でのひとつの条件に過ぎないのに、規制をクリヤーすることだけにしか目が向かず、そのため
の社内の仕組みの整備を進めているとするならば、それはいつまで経っても企業の社会的責任
に対するレベルアップを図ることはできないだろう。
 企業が利益を生み出すことができるのは、消費者に製品を購入していただく結果だというこ
とを認識できれば、極端な金儲け主義に走ることはないだろう。社員ひとり一人の生活が成り
立っているのは、顧客がお金を払ってくれる結果であるからだということが自覚できれば、自
分たちの都合ばかりを優先しない、顧客の立場に立った企業運営を進めることだろう。「コン
プライアンス」の問題は、このような企業の基本的なスタンスの上に成り立つものなのである。
 
「コンプライアンス」違反が発生しやすい企業
 
 問題を起こした企業に共通的なことは、経営者がワンマン体質であり、問題がわかっていた
けれどどうしようもなかったとのことだが、はたして本当にそうだろうか。ワンマンを直訳す
ると一人の男となるが、経営者は文字通りひとりぼっちの孤独な存在で、誰の助けも借りずに
物事の判断をしなければならない立場にある。したがって、決断をすることができなければ、
企業の舵取りはできないし、何人もの従業員を率いていくことは不可能である。だから、ワン
マンであることについては問題はない。
 そこに問題があるとするならば、判断をする際に他人の意見を聞かず、したがって客観的に
事実を捉えることができずに、思い込みで方向を決めてしまうことである。自分の意見だけが
正しいと思い込み、それに異を唱えるものを排除していくようになったりしたなら、部下はイ
エスマンを演じることしか選択肢はなくなってくる。そして経営者は、いいことしか耳に入ら
ない「裸の王様」になってしまうのである。
 トップが失敗することを極端に嫌うような企業は、閉鎖的な体質に陥りやすく、さらにはそ
れが隠蔽体質へと変化していく。なぜならば、仕事がうまくいくことだけが前提であるから、
職場で日々発生している問題はすべて覆い隠されてしまう。
その場合は、仮に法令遵守をしていない事実があったとしても、それが表面化することはない
まま進行するだろうから、それが標準的な作業として定着していき、社員はそのことに疑問を
感じなくなってしまうであろう。
 どんな会社であっても大なり小なり問題は発生しているのだけれど、要はそれを解決させよ
うとする力が作用するかしないかである。改善活動が定着している職場では、まずは現状を否
定しようといった意識の切り替え方が訓練されているから、問題は顕在化しやすく、ごく自然
な形で自浄作用が働いてくる。ところが、閉鎖的な隠蔽体質の企業では、問題が発生すること
自体が問題となってしまうから、誰もアクションを取ろうとしない。したがって、内部告発だ
けが問題を顕在化させる手段になってしまうのだが、それについては次号で解説をしていきた
い。

 

  顧客から、社会から

    信用されるメーカーになるということ   (下)


                                「プレス技術」  6月号  日刊工業新聞社
 

 私は、ゴールドの運転免許証を一度も手にしたことがない。その理由は、「最低でも5年以
上交通違反行為を行っていない場合」という条件をクリヤーしていないからである。過去を振
り返ってみると、概ね2年に1回のペースで交通違反を繰り返している。それもすべてスピー
ド違反である。予防処置として車には「レーダー感知器」を装備しているのだが、それでも覆
面パトカーに捕まってしまう。そのことに納得がいかなかったので、「レーダー感知器」のメ
ーカーに文句を言ったところ、「カーロケ無線を切っているパトカーが、自分の速度計を使っ
てスピードを計測する場合は対応できません」との答えが返ってきた。
 
 一度は、私の車の前を見通しても後ろを見通しても車が1台として存在しないような、交通
量の少ない直線の高速道路で捕まってしまった。私はパトカーに乗っていたお巡りさんに、
「もう少しスピードを出すことが危険な場所で取り締まりをするべきだと」主張した。たとえ
ば制限速度が80km/hの高速道路で制限速度を守っている車が、はたしてどのくらいの比
率でいるだろうか。実際に測定したわけではないのでデータで示すことはできないが、実際に
日常高速道路を走っている感覚でとらえると、そのような車は極めて希である。
 
なぜ制限速度が決められているのか
 
 なぜスピードを出してはいけないのかであるが、そのことにより危険な状態を生み出す可能
性が高くなるからである。このような捉え方をすると、最高制限速度100km/hの高速道
路を、ほとんどの車がそれに近いスピードで走っている場合、法定最低速度50km/hを守
っている少数の車の存在の方が、はるかに危険な状態となってしまう。つまり、ここでは、全
体の流れに合わせて車を走らせることの方が、安全を確保するといった観点からは重要になっ
てくるのである。
 
 このように、制限速度の規則は、交通の安全を維持するためのひとつの目安なのである。そ
れが証拠に、雨の日の急なカーブにさしかかった場合には、運転している人が自主的にスピー
ドを緩めているはずだ。危険を感じる道路条件のなかでも、制限速度は100km/hだから
それ以内で走っていればいいといったものではない。
 
 間違えないで欲しいのは、だからといって制限速度を守らなくてもいいのではないかと言っ
ているのではなくて、その規則がなぜあるのかというところまで運転手が理解しながら行動し
なければ、その規則の本来の役目は果たせないだろうということである。
 
青信号が身を守ってくれるのか
 
 欧米人にとっては、これから渡ろうとする横断歩道に、確実に車が走り込んでくる様子がな
い場合でも、歩行者用の信号が赤の場合は絶対に横断歩道を渡ろうとしない日本人の行動が、
なんとも不思議でならないことのようだ。それは、自分の安全は自分自身で守るという欧米の
生活習慣から来ているものだと思われるが、このことはこう考えてみるともっと分かり易くな
る。目の前の信号が青に変わった。しかし、車道を走っている車が全部停止してくれる保障は
ない。こんな場合、自分の身の安全を確保してくれる条件は、青信号ではなくて、横断歩道の
手前で自動車が停止したという事実である。
 
 田舎の、信号のない横断歩道を渡るときは、左右の状態をよく確認しないととても怖くて足
を踏み出すことができない。その理由は、「横断しようとする歩行者等があるときは、当該横
断歩道等の直前で一時停止し、かつ、その通行を妨げないようにしなければならない」という
道路交通法が、歩行者の安全を守ってはくれないからである。このように、規則はひとつの基
準でしかなくて、それを守ることによって保護するものがそこにはあるのだということを認識
したいのだ。
 
コンプライアンスの先にあるものを見よう
 
 なぜ法令や規制を守らなければならないのかということが、社員に理解されそして社内全体
に浸透していなければ、またいつの日か「コンプライアンス」違反は発生してしまうだろう。
逆説的な見方をするならば、法令や規制が存在しなくても、問題の発生がない状態がいちばん
望ましいのである。そのためには、自分たちの行動や仕事の結果が、他の人やお客様に対して
どのような影響を与えてしまうのかをよく考えて、自らの行動を自主規制できることが必要と
なってくる。
 
 とかく「コンプライアンス」というと、法令や規制を守るか守らないかといったところに論
点が行ってしまいがちであるが、そうではなくて、自己中心の、自分たちさえよければそれで
いいといったものの考え方から、社会全体における自分たちの役割と機能と立場を十分見据え
ながら、自社の経済活動が及ぼす影響を考慮した上での展開に結びつくように、意識そのもの
を変えていかなければならないのだ。
 
企業の中に自浄機能はあるのか
 
 社会問題にまで発展した企業の「不祥事」の多くは、何らかの形の内部告発によって表面化
している。そのことについての詳細までは発表されていないが、その会社で働いているか以前
在籍していて退職した人たちが、「不正」を会社以外の組織に通報したことから明らかになっ
たものが多いようだ。ここでのキーワードは「会社以外の組織」である。つまり、このことは、
企業の中の自浄機能が発揮されていないということの裏付けでもある。
 
 私が知っている食品工場に、以前に勤めていたことがあるパート社員から、コンプライアン
ス違反を究明する電話が入ったことがあった。そして、その「告発者」は、表面化させない代
償として金銭を要求するというものだった。その工場がどのような対応をしたのかは定かでは
ないが、このような事態を発生させない予防処置はひとつしかない。つまり、工場の中でコン
プライアンス違反を発生させないことである。
 
 ところが、コンプライアンス違反はすべて悪意に基づくものばかりとは限らない。生産性と
効率と品質を追求していった結果として、規則からはみ出てしまうことは十分考えられること
である。最初から規則ありきの企業活動では、社員の自発性や創造性までも押さえつけてしま
う結果になり、硬直化した柔軟性に欠ける組織が作り出されてしまいはしないだろうかといっ
たことが、このテーマに対する私の問いかけである。
 
 一時的に規制を守れない事態が発生してしまったときに、早い段階でそれをキャッチして修
正するのか、はたまたそのことに気が付かないのか、気が付いてもそのままにしておくのかは、
その企業の体質の問題である。規制で仕事をがんじがらめにはせず、柔軟な発想に基づく展開
ができる土壌を維持しつつ、規制からはみ出たものについては素早く表面化させ、それに対す
る是正を行っていく。こんな体質の企業にしていきたいのである。
 
内部告発を発生させないために
 
 「情報セキュリティシステム」が、外部の要因に対しては効力を発揮させることができ、そ
してペーパー化された書類や、コンピューターの中のデーターの物理的な持ち出しはある程度
規制することができても、人の頭の中の記憶までは「持ち出し」を制限することはできない。
そしてそんなことを恐れていたのでは、仕事をひとつとして特定の人に任せることができなく
なってしまう。

 内部告発の原動力となっているものは、事実に対する問題意識であるはずだ。つまり、それ
ではまずいのではないかと感じるところから発生するのである。しかし次の展開として、社内
で解決させようとするのか、社外に解決の方法を求めようとするのかの違いなのだ。そこには、
今よりもよくしたいという意識が必ずあるはずだと思いたい。そのこと自体は素晴らしいこと
なのに、それが外部に向けられてしまうことが問題なのではないだろうか。
 
 社内に対して漠然とではあっても問題提起をしたのに、取り上げてもらえないばかりか耳も
貸してもらえなかった結果として、そのエネルギーが外部に向かってしまうのだったなら、そ
こには何らかの原因があるはずだ。会社や職場や上司に対する何らかの不満が鬱積し、それが
持って行き場のないレベルに達してしまったときに、本来は前向きな改善に結びつくべき問題
意識が、敵対心に繋がるような悪意へと変化してしまう可能性がある。
 
 問題を見て見ぬふりをしたり、覆い隠してしまおうといった企業体質は、内部告発の発生す
る土壌となってしまうから、それは早急に改めなければならない。そのためには、形式的では
ない形の内部監査の実施や、問題を顕在化させるための内部通報制度を企業運営の仕組みの中
に取り入れることである。そのためにもいちばん必要なのは、本音を言い合える職場づくりを
することである。企業が日常からそのような努力をしていさえすれば、問題意識のエネルギー
は決して外部には向かわないだろうし、仮に問題が発生したとしても、社内で早期に解決して
いることであろう。
 
独りよがりの偏ったトップダウン
 
 「コンプライアンス」違反が表面化し、マスコミによって広く報道されることになった。経
営者が記者会見の場に現れて、そのことは関知していなかったから、現場の判断で行われたこ
とだと弁明した。しかし、事実が明らかになっていくにしたがって、経営者はそのことを承知
していたばかりか、積極的に推進していたことまでもがはっきりしていった。こんな例が今ま
でにいくつもあった。つまり、「命令」としての「コンプライアンス」違反が、意図的に行わ
れていたのである。
 
 経営者の指示による企業ぐるみの「コンプライアンス」違反を、一人の社員がどう修正でき
るかであるが、これは現実の問題としてかなり難しい。なぜならば、仕事というのは、上司か
らの命令を基にして成り立っているものであるからだ。命令に従わない社員はラインから外さ
れて、冷や飯を食わされるようなかたちになるとしたならば、単に「勇気がない」などという
きれい事では解決しない。しかし、このことをなんとかしないことには、企業の本当の意味で
の社会性は満たすことができない。
 
 社外取締役制度が導入されたのは、取締役会の監督機能による企業統治の実効性を高めるた
めであった。つまり、取締役会が、会社の指揮命令系統から独立した観点から、公平な立場で
経営状況を監視することにより、より適正な会社運営を可能にしたものである。この社外取締
役制度の採用は任意だというけれど、この仕組みを広く中小企業にまで広げていくことが、い
ちばん現実的な対応方法なのではないだろうか。
 
創造的な発想ができる職場体質を築こう
 
 まずはじめに規制ありきの、身動きができないような企業体質にはしたくない。規則を守っ
ているかいないかが仕事の中心になってしまうような、無機質な職場を作りたくはない。社員
ひとり一人の意志がストレートなかたちで業務に反映され、主体的な行動の結合が企業活動に
なっていくといった位置づけにしたい。そして、それを包む形で「コンプライアンス」がある
といった構造にしていきたいのである。顧客から社会から信頼されるメーカーになるためには、
そのように能動的な機能が定着していることが必要なのではないだろうか。
 
 もうひとつ重要なことは、「顧客志向」をいかにして徹底できるかである。このような観点
から日常の仕事を見直してみると、自分たちの都合を優先している事例がまだまだ多いことに
気が付くはずだ。ユーザーや消費者の立場に立つということは、口で言うほど簡単なことでは
ない。なぜならならば、今までの仕事のやり方では済まなくなる場合がたくさん出てくるだろ
うから、それを変えなければならないからである。
 
 「顧客志向」は、単に意識すればいいというものではなく、企業活動としての実践を具体化
しなければならないものである。今後、企業が社会の中の一員として存続していかなければな
らない以上、逃れることができない課題として、もっともっと重要になってくることであろう。
 
個人の意識が問われる時代
 
 大量消費が美徳であった高度経済成長時代に、日本人の意識の変化が起きてしまったような
気がしている。つまり、自分以外の人のために努力することを惜しまないといった、古来から
受け継がれてきた精神が、自分さえよければそれでいいというような、他人のことは顧みない
自己中心の価値観に浸食されてしまったのだ。したがって、「コンプライアンス」がひとつの
歯止めとして存在しなければ、もっとひどい現象が日本のあちこちで発生してしまうのではな
いかと危惧してしまうほどだ。
 
 私ごとで恐縮だが、自動車を運転していて、目の前の左側の細い道から合流しようとしてい
る車があれば、明らかに流れを阻害しそうな場合を除いて、自分の車を一旦停止させてその車
を合流させてやる。すると、運転手は嬉しそうに会釈をしながら走り去っていく。こんな行為
は自己満足に過ぎないかもしれないけれど、こういうことを繰り返していれば、今度はいつか
誰かが、私が困っているときに同じようなことをしてくれるかもしれないと思っているのだ。
 
 自分にとってはちっともプラスにはならない行為であっても、それを受け取る人にとっては
大きな意味をもってくる場合がある。自分がされたときに不快に思うことは、他人に対しても
行ってはならないのだ。だから、そこから生まれる行動は、善意に裏付けされたものばかりで
なく、ごく自然にあたりまえにできる行動でなければならない。社会を、会社を構成するひと
り一人が、このような気持ちを持ち続けないと、企業が社会不正をしてしまう事例は、いつま
でたってもなくなることはないだろう。
 
 私がゴミのポイ捨てができないのは、たとえば捨てたプラスチックが地面に落ちたあと、ど
うなっていくのかを想像するからである。ブラスチックは腐敗することがないから、永久に土
とは同化できずに、そのまま「異物」としての存在を続けていくことになる。このような状態
を自分自身で許容できないからゴミを分別し、決められた処理ルートに乗せようとしているの
である。つまり、このことは自分自身の価値観から発生している行動であり、決してルールを
守ることを優先させているのではないと思っている。