今月の辛口コラム
   「工場管理の光と影」  日刊工業新聞社・工場管理  連載
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最終話 ごあいさつ

 私がこの連載を始めることになったきっかけは、当時の編集長から「このような内容の文を書いて欲しい」という提案があったからです。「工場運営の光と影」という題名も与えてくれて、「影」の部分にも焦点をあてて欲しいとの依頼でした。だから私は、自分のほろ苦い体験も織り込んだりしましたから、「工場管理」の枠をはみ出た内容になってしまったことに対して、本当にこれでいいのだろうかと、常に思い続けていたことも事実です。

 ひと月は長いようですが、原稿の締め切り日があっという間にやってくるわけです。そのうちにテーマとしての種が切れてくるし、自分の行動としての裏付けがないものを文章にしてもそれは軽っぽい内容になってしまったりで、連載も最後の方になると、これだけの文章を作成するのにずいぶん時間とエネルギーを投入しなければなりませんでした。

 連載80回というのは、6年8ヶ月というとてつもない長さです。私が「企業のお医者さん」としての仕事を始めてからちょうど13年になりますから、その約半分の後半にあたる仕事の経緯とシンクロしていたことになるわけです。毎号のテーマが、読んでいただいた方参考になったどうかは疑わしいところですが、副産物としては、単行本が2冊、かたちとして残りました。

 決して楽な作業ではなかったわけですが、私自身の行動のひとつの部分を支えていてくれたこともまた事実です。ここまでの長きにわたって続けてこられたのも、「工場管理」編集部からの叱咤と、読者のみなさんからの激励があったからであります。感謝に堪えません。ありがとうございました。
                                        2013年3月号

 
 
第79話 ほめることが
         本当にその人を成長させることになるのか


 先日観たテレビ番組では、ほめられることで、学んだことをより忘れにくくなる。ほめられることで、その分野のことがより上達する。これらのことが実験で証明され、論文で発表されたことが報道されていた。

 何をやっても叱られる環境に身を置いているよりも、少し成長したらほめられることの方が、やる気に結びつくだろうことは誰にだって理解することはできる。ただその成長は、一定の限られた枠の中におけるものでしかないのではないかという疑問が、一方では生じてしまうのだ。その枠とは、いま発揮することができる実力の、範囲内でしかないということだ。

 職場においては、誰か怖い人がひとりくらい存在していないと、緊張感が保てないと言われているのは、そうでないと、自分自身で楽に動き回れるような枠を作ってしまうからである。そして、このくらいまでなら叱られないだろうといった判断で、無意識のうちにリミッターをかけてしまっているのだ。

 ほめることによって、相手は前向きな気持ちになれるかもしれない。ただ、それが口先だけの場合は、現状を追認してしまうことになりかねないのだ。ほめるということは認めることであって、決しておだてることではない。したがって、叱るときと同じように、相手を伸ばそうとする愛情が伴わなければならないのだ。
                                         2013年2月号
 
 
 
 
第78話 地位が人を作るのか、人が地位を奪い取るのか

 地位が人を作るというのは、その地位に就くことによって、自然と立場としての自覚が発生するだろうし、行動も伴うものにならなければならないから、その結果として実力が養われることになるだろうという、極めて楽観的な考え方である。確かにそのような側面もあるだろうが、それはその人に潜在的な能力が備わっていた場合である。

 人が地位を奪い取るというのは、たとえば課長のときに部長レベルの仕事をし、成果を生み出したことを認められることによって、ひとつ上の職位、この場合は部長のポジションに就くようなケースである。私は、本来の昇格とはこうであらねばならないと思っている。

 したがって、今の地位に漫然と居座っているのではなく、自分が今よりも上位の立場にあったとしたなら、どのような判断をするのかといった発想で仕事に臨むと同時に、それを常に行動で示していかなければならないわけだ。
                                         2013年1月号
 
 
 
 
第77話 「遊び心」と「いい加減さ」を混同させてはいけない

 私事で恐縮だが、父は、「堅(かた)い人だ」とみんなに言われている。普段の言動
に、遊び心の切れっ端も含まれていなくて、融通がちっとも利かないからだ。若いときに、戦闘機のパイロットになるための訓練を受けてきたのだから無理もないのかなと思うこともあるが、私は一緒に生活をしていて息苦しくて仕方がなかった。

 父の中には、「自分が間違っている」という計算式が存在していない。いつも自分の価値観でものごとを判断し、それを押しつける方向に作用させてしまう。そうなってしまったもうひとつの要因は、会社という組織の中に属したことがなく、したがってまわりの人たちと融和する必要がなかったし、頭を叩かれることもなかったことにあるのではないかと、私は分析している。

 しかしながら、「遊び心」というのは、本当は父のような「生真面目さ」が土台にあってはじめて成り立つものであり、いい加減さの延長にあるのは単なる「遊び」であって、それは自己を成長させるのに役立つ行為とは言えないのだろう。父の、むき出しの自己主張を見ながら育った私は、一方では、何事に対しても決して手を抜くことのない姿勢を、学び取ってきたのだと思います。
                                        2012年12月号
 
 
 
 
第76話 感情との戦いは、
         今でも治まることがない葛藤の日々になっている

 偉そうに「好き嫌い」についての解説をしている私も、実は感情のおもむくままに行動している人の、典型的な例そのものなのである。あるとき、転勤で私の職場から離れていく上司が、わざわざ私を呼んで、おまえは人の好みが激しいから、それを治すことが必要ではないかと諭してくれたものだ。

 そのことは自分でもうすうすと感じてはいたのだが、それを修正することはなかなかできなかった。そしてそんな姿勢でいては通用しないと思い知らされたのは、こうやって個人で事業をスタートさせてからである。自分の好き嫌いをさらけ出しながら、お客さんとやりとりをすることなど、まったく叶わなかったからである。

 かといって自分の主張をセーブしていたのでは、この仕事は成り立たない。相手が嫌な顔をするかもしれないからといって、本当のことを伝えないでいるかぎり、問題が解決することはないからだ。だからそこで必要になるのは、訴えることにいかにして客観性を持たせられるかだと思う。

 事実をもとにして、論理的な展開を繰り広げていけば、個人の感情が入る余地がないのである。ただ、心の底にはいろいろな感情が渦巻いているから、そしてそれは完全に消し去ることができないから、日々こうやって、自分自身の中で葛藤を繰り返しているのです。 
                                        2012年11月号

 
 
 
第75話 人間関係の密度が薄くなっているから
                     会社の運営が難しい

 私も、請われて何人かの部下の仲人を務めた口だが、当時は、勤務している会社の上司を仲人に立てるのが、ごく一般的なパターンであった。ところが今は、しきたりとしての仲人そのものが消滅しつつある背景もあって、若者が、そのときの上司を仲人にするなどということは、おそらく考えられないのだろう。

 社員旅行を企画しても参加者はそんなに望めず、職場の飲み会も、プライベートの時間をそがれるからと、敬遠される傾向にあるようだ。したがって、上司と一対一でお酒を飲むなどという行動は、現代の若者のプログラムには、おそらく組み込まれてはいないことだろう。
 
 仲人を上司に頼む理由に、将来の「出世」のことを考えてといったこともあったかもしれないが、それよりも、会社という組織の中での個人と個人との関係が、今よりもはるかに濃密であったことが裏付けとしてあったのだろう。それに比べると今は、なんだか人間関係もデジタル化してしまったような気がしている。

 個人と個人が何らかのかたちで結びつかないと組織は強くならないのに、そしてそのことは、まわりに迎合することとは違っていることなのに、どこかが何かが狂ってしまっている現代社会の中で、人を媒体とした会社の運営が、たいへん難しくなってしまっている。 
                                         2012年10月号

 
 
 
第74話  「工場運営の光と影」の宣伝を入れました。
                                         2012年9月号
 
 
 
 
第73話 会社が
         いつまでも「理不尽」な世界であっていいのか


 私の脳裏から今でも離れないものは、ある会社のお酒が入った交流会の場で聞いた、「会社というのは理不尽な世界だ」という、その会社の部長さんの言葉である。その交流会は新入社員の歓迎会で、先輩社員がひと言ずつメッセージを発する場であった。その部長さんは、今までにいくつかの会社のいろいろな立場を体験しているから、その発言には実感がこもっていた。

 それがなぜ私の心の中に澱(おり)のようなかたちで留まっているのかというと、会社員だった当時に自分も何度となく体験してきたことであるし、今もいくつかの会社で実際に目にすることが少なくないからである。会社は私生活の場とは異なるから、自分が思ったようにはいかないことは当然のことであるが、存在する目的と進む方向が一致しているはずのに、「理不尽」などという感情が芽生え、それが巣くうようになってしまうのはなぜなのだろう。

 「理不尽」さをやり過ごすために、自分の中にある「個性」を押し殺しているのだとしたなら、せっかくの実力も十分発揮できないことになりはしないかというのが、私がいちばん危惧していることなのである。会社の組織の中での個人のあり方、個人の集合体としての組織の機能、これからも追求していかなければならないテーマである。 

                                         2012年8月号

 
 
 
第72話 新入社員が定着しないのは
         辛抱するための足場が築かれていないからだ 


 大卒新入社員の3年以内の離職率が30%を超え、高卒の新入社員に至っては40%に迫る勢いである。一方では就職難民が溢れかえっているというのに、苦労して一度は就職した会社を辞めてしまう人が、こんなにも多いのである。

 私が新入社員を預かる立場にあった頃、真っ先に認識してもらったことは、3年間は「辛抱」して欲しいということだ。「我慢」というのは、不満を押し殺しながらやり過ごすことであるが、「辛抱」というのは、前向きさをどこかで維持しながら、堪えること、踏みとどまることだと解釈し、それを伝えたかったのである。

 3年以内に辞めてしまった人が次の会社に就職しても、長続きはしないだろうことは容易に想像することができる。それは、「辛抱」するという軸が自分の中に築かれていないから、毎日のしかかってくるさまざまな現象に振り回されてしまい、もっと「心地よい」世界をどこかで求めてしまうからである。

 会社が、新入社員が定着しないという問題を抱えているのだったなら、それを個人の資質にしてみたところで問題は解決しないだろう。そんなときは、堪えたり踏みとどまったりするための足場を、何らかの形で与えているのだろうかと考えてみることだ。その足場をお互いが掴み取るためには、単純な、ありきたりの教育計画を実行するだけではだめで、もっと人間の本質に関わる部分にまで踏み込んでいくことが、どうしても必要になってくるのだ。 
                                        2012年7月号

 
 
 
第71話 経営層の
         暴走を食い止める体制がなくなってしまった


 高度経済成長時代の労働組合運動の活動のひとつに、職場の声を吸い上げるための方法として、「一(いち)要求」という取り組みがあった。組合員一人がひとつだけ会社に対する要求を明らかにして、それを職場会の話し合いの中で絞り込んだ後に、組合の組織としての要求事項にしていくというプロセスを踏んでいた。

 今になって思うことであるが、この仕組みは、不満や問題提起からスタートさせたものを、個人レベルにはとどめておかずに、組合員全体のものとして結集させるという意味においては優れたものであった。少なくても、途中で個人の名前がクローズアップされることはなくなる。

 コーポレートガバナンスの問題にメスを入れることが、当時の労働組合運動のレベルでできるとは思わないが、定期的に開催された「労使協議会」がそれなりのチェック機能を果たしていたし、経営側も緊張感をもって臨んでいた様子は伺われた。

 労働組合の組織率が19%を切り、組織されている場合においても、弱い立場にあるパートや派遣労働者を守ることができず、組合員のエゴを代弁するだけの集団に成り下がってしまっているから、今さら労働組合に期待することなど何もないが、いくつかの経営層の暴走の例を見るにつけ、その対策として、何かしらのヒントを与えてくれるのではないかと思うのです。
                                         2012年6月号
 
 
 
 
第70話 顧客よりも
        上司からストレスを感じていることがないだろうか


 営業活動をしていて、顧客と折り合いがつかなかったり、もっというと見放されそうになった場合、まずは上司に状況を報告して判断を仰ぎたいと思うことだろう。最終的な判断は当事者としての自分でしかできないにしても、なにがしかの意見をもらうことにより、思考を展開するための条件が広がったり、逆に問題の絞り込みができることにもなるだろう。

 ところが、まともに取り合ってもらえなかったり、どう考えてもピントがはずれているとしか思えないような方向が示されたりすると、こんなことなら報告をしなければよかったと感じてしまう。そして、納得できなくても上司の指示を実行しなければならないとなると、顧客に対するよりも強いストレスを、身内である上司から受けてしまうことになる。サラリーマンが仕事を進める場合においては、このような場面に遭遇することが案外多いのである。

 工場に本社の社長が来るときの受け入れ体制の方が、顧客がわざわざ来てくれるときよりも物々しかったりする。このような会社にいる社員が、社長や上司が機嫌を損ねることがあらかじめ予想できるのに、みすみす「本当のこと」を報告できるはずがない。コーポレートガバナンスが機能しないのは、ひとつひとつの現象というよりも、その会社が抱えている本質的な問題なのである。
                                       2012年5月号
 
 
 
 第69話 被災地から医者がいなくなっている?

 東日本大震災のあと、我先に逃げた医者が帰って来ないのだという。逃げた医者の中には、平時から医者には向かないと思っていた人が多くて、高校時代に偏差値が高くて本当は別のことをやりたかったのに、「もったいない」から医学部を受けさせられた不幸な人たちだと、被災地の住民はみんなが同じ感想を持っているのだそうだ。

 こんなことを耳にすると、「仕事」とはいったい何なんだろうかと考えさせられてしまう。誰もが、生活の糧としての収入を得ることがひとつの目的であることは否定できないと思うが、ただそれだけで漠然と毎日を過ごしているのではあるまい。夢と言ってしまえば抽象的になってしまうが、自分の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きることを、みんながどこかで追い求めているのだと思いたい。

 このように考えてみると、自己実現を追求しそれを叶えようとすることが、極めて困難な世の中になってしまっていることがわかる。高校や大学を卒業して、自分で就職する企業の職種を選びたくても、それを簡単には許してくれない環境だ。職種はなんでもいいから、まずは内定を出してもらえるかどうか、つまり就職先があるかどうかが問題になってしまっているのだ。雇用も生み出せないでおいて、企業の社会的使命を果たしたといえるのであろうか。挑戦する場も与えないでおいて、人間らしさを求めるのは筋違いなのではないか。最近そんなことをつくづく考えさせられている。

                                       2012年4月号

 
 
 
第68話 全てを数字で表現する習慣を身に付けよう

 現場の監督者と話をしていると、憶測でものを言っている様子がいろいろな場面で伺われる。現場に常に身を置いている人の直感は案外あたっているものだが、普段は現場にいない私が、断片的に見せていただく数字から解析した問題提起の方が、潜んでいるムダを明確に表すことができるのはなぜだろうか?

 「3現主義」の考え方は常に基本に置かなければならないのだが、ただ現実をその目で見るだけではムダを発見することはできない。なぜかというと、そこに「経験」という要素が入り込んでしまっているからである。過去の経験をステップにして次の段階に進むことができればいちばんいいのだが、多くの場合は、「経験」が「固定観念」というやっかいなバリアーをかたち作ってしまう。そして、この「固定観念」が、その人の成長を阻害してしまっている。

 異質なものを受け入れることができなければ、自分自身を変えることができないのに、物事に取り組む前から、一定の枠を自分で設定しながら望んでいるということがないだろうか。そしてその枠の外にあるものは、自分の中に取り込むことをせずに排除してしまう。そんなとき必要なことは、事実を数字にして捉えることである。数字は誰に対しても共通の物差しであり、数字を分析するためには、より客観的な思考が要求されるからである。
                                       2012年3月号

 
 
 
 
第67話 今の仕事における付加価値は
                  何なのかを考えてみよう


 私が、年に1回だけ、自分の税務申告の作業をお願いしている税理士の先生は、本文で取り上げた「戦略会計」の考え方を基本に置いているから、いろいろな場面で私と話が合う。したがって、顧問先に対しても、経営改善をどう進めたらいいのかというスタンスで、日常の働きかけをしていることだろう。

 ところが、私が仕事でお付き合いをしている経営者の皆さんを通じて、税理士の先生の顔がちっとも見えてこないのはなぜだろうか。これだけコンピュータが発達した状況下では、決算処理や申告処理は誰でもが作業として行うことが可能になってきている。つまり、集計処理そのものは付加価値ではなくなってしまっているということである。

 一方で、中小企業の経営者の悩みと苦悩は深刻である。今までの型どおりの現場改善を実施していただけでは、この難局を乗り切ることはできない。だからこうやって、会計処理の問題にまで足を踏み入れているのだ。東北大震災で大きなダメージを受けた後に、追い打ちのように降りかかった円高という困難な経営環境。企業が海外展開をするしか選択肢がなくなっている現状に対して、なんとか日本経済を立て直すべく、私たちが今こそ力を合わせようではないか。
                                       2012年2月号
 

 
 
 第66話 管理・監督者は
           ただ現場に入ればいいというものではない


 3現主義の誤った解釈としては、管理・監督者はいつも現場にいなければならないと思い込み、さらには実際の作業に直接手を出してしまうことだろう。たとえばマネージャーという職位は、現場を管理(マネージメント)することに対して与えられているはずなのに、直接作業者と同じような仕事をしていたのでは、その役割を果たすことはできない。

 生産活動に汗を掻きながら従事し、実際に手を動かしてみることも、その場の実態を把握する上では意味のないことだとは言わないが、ただそれだけで一日を過ごしてしまい、「今日は忙しかった」と満足しているようではどうしようもない。なぜそのような動作になってしまうかというと、それの方が「管理」をするよりもはるかに「楽」であり、生産に寄与したという満足感が自分自身で得られるからである。

 こんなときに管理者の仕事として定義したいひとつの要素は、「自分がいなくなってもきちんとまわるような現場を作ること」である。つまり、仕事を個人単位のやりとりではなく、仕組みとして運営できるようにしないといけないということだ。常に管理・監督者が手を出さなければまわらないと思っている現場ほど、本人がいなくてもそれなりに、そして今と同じ程度にはまわっていくものだ。                                                                2012年1月号

 
 
 
第65話 楽をしたいから改善活動に取り組むのである

 私がふたつめの工場を立ち上げたときは、最初の3ヶ月間で体重が10kgも減ってしまった。毎晩家に帰るのは午前様で、休日も呼び出されることばかりだったから、月に一度お休みを取るのがやっとの状態だった。あとで聞いた話であるが、家族は「ノイローゼになるのではないか」と思っていたようである。

 もちろんそんな状態をいつまでも続けるつもりはなかったから、日々問題を解決させようとしたのであるが、そんなに短期間で結果が出せるものではなかった。こんなときは、ルーチンワークと改善活動との境があるわけではない。改善をしなければ泥沼から抜け出すことができなかったから、まさに必然性があったわけである。

 私は仕事そのものは大嫌いで、どうすれば楽ができるだろうかといつも考えている。ただ、手を抜くことで楽をするのではなく、今より違ったいい方法で仕事ができれば、きっと楽になるのではないかと考えているのである。だから、いつまでもこんなことをしていたくないという気持ちが、改善活動にのめり込む原動力になっている。

 立場は変わって、今は当事者ではないから、改善活動の結果自分自身が楽になるわけではないけれど、現場に入って担当者の実情を目の当たりにしたりすると、なんとかしなければならないと、自分自身のことのように思ってしまうのです。

                                       2011年12月号
 
    
 
 
第64話 残業の実施状況と質的内容を問い直す時期だ

 従業員の健康管理の面からも、残業は極力させないようにしなければならないのは当然のことである。経営者の立場から捉えても、割増賃金を支払うことになるから、確実にコストアップに繋がっているのである。しかしながら、この残業を削減させようとすると、その背景にあるいろいろな問題がクローズアップされてくる。

 まずは、従業員が、残業手当をあてにした生活設計をしていること。これは、基準内賃金が低く抑えられている給与体系にも問題がある。そして一方では、残業をた
くさん行う人が会社に協力的な社員だとして、経営者が評価するような傾向にあること。遅くまで会社にいる人が優秀な人だとの捉え方がされるなんて、どう考えてもおかしい。

 昨年改正された労働基準法では、時間外労働が月に60時間を超えた場合は、50%以上の率を加算した割増賃金を支払わなければならないことになった。中小企業への適用は3年間猶予されているが、残業を充てこんだ企業経営を見直さなければならない時期来ていることは、誰もが認識していることであろう。

 仕事の与え方を変えないでおいて、残業時間だけを制限したりすると、一時社会問題にもなった「サービス残業」が発生するだろう。つまり、残業の問題を解決させるためには、総合的な改善活動にまんべんなく取り組まなければならないということだ。そしてその目標は、が同じ時間に帰ることができること」に置くべきである。

                                       2011年11月号

 
 
 
第63話 今何が悪いのかを伝えないと
            部下を成長させることにはならない


 ある会社で、夏のボーナスの支給額を決めるための業績評価を実施した。一次
評価は本人にさせ、二次評価以降を上司が行うといったものだったが、そこには面白い現象がみられた。それは、本人と上司との評価が著しく異なっていることであった。

 差が出るパターンはふた通りある。ひとつは本人よりも上司の方が厳しい見方をしている場合。もうひとつはその逆で、本人が自分自身を厳しく評価している場合である。日本人の特徴としては後者の場合が多いと思われるが、問題にしたいのは前者の場合で、本人が思っているほど、会社のために役に立っていないケースである。

 今の状態が最高だと思っていれば、それより上のレベルに挑戦することはなかなかしないだろう。そればかりか、こんなに頑張っているのに何で評価が悪いのだと、いじけてしまう方向に走りがちである。これでは貴重な人材を活かしていくことにはならない。この現象を見たその会社の管理者たちが素晴らしいのは、何が問題なのかが本人に伝わっていないことを認識したことだ。

 そこで次の評価に向けての行動としては、「今あなたが直して欲しいこと」を部下に伝え、さらに「この半年間で実現させること」を本人に挙げさせ、それを評価していこうということになった。この場合に留意しなければならないことは、本人があらかじめ備えている人間としての欠点を指摘するのではなしに、仕事の上での行動を遡上に挙げなければならないことである。
                                       2011年10月号

 
 
 
第62話 給料の額は仕事のあとからついてくるもの

 工業高校を卒業したあとに就職した会社の入社説明会で、大卒の人たちが給料の額にばかりこだわることに違和感を覚えた。私の考え方は、仕事をきちんとしていけば、条件はあとから付いてくるものではないというものだった。確かに給料が多いに越したことはないが、それは実際に成果を上げてから考えることだと思ったのだ。

 やがて管理職になった私は、「給料が少ない」と愚痴をこぼす部下に、「それでは給料を倍にすれは、今までの倍の結果を出してくれますか」と問いかけた。自分の労働条件に関心を持つことはいけないことではないけれど、多くのサラリーマンの発想は順序が逆なのだ。

 プロ野球の選手は、過去にいくら実績を積み上げていたとしても、その年に結果を示すことができなければ、たちまちお払い箱になってしまう。これがプロの世界の厳しさである。「給料が少ない」と言える人に共通しているのは、仕事の成果を低く評価されても、給料が大幅に下がることと連動しているケースはほとんどないことだ。ここに「甘え」が入り込む余地がある。

 仕事のプロであったなら、「今期は成果が出せなかったから給料を下げてください」と会社に言わなければならない。そのような人にだけ、結果を出したときに「給料を上げてください」と主張する権利があるのだ。
                                      2011年9月号 

 
 
  第61話 えこひいきが組織のまとまりを壊してしまう

 女性ばかりの職場の管理監督者に就く機会が多かったが、そこでいちばん気を遣っていたことは、全員に対して「平等」に接しなければならないということであった。昨日まで親しく会話を交わしていた人が、あるときからころっと態度を変えて、攻撃的な言動を取るようになったことがあった。その原因を探っていったところ、その人とは別のグループの人たちに、私が仕事中に優しい声をかけたことがあったからだというのだ。

 もちろん私はそんなことは意識せずに仕事をしていたわけだが、それ以来、仕事の指示はできるだけ対象者全員を集めて行い、職場の雰囲気を和ませる冗談みたいなことでも、個人を対象にして語りかけることをしないようにした。本当はこんなことに気を遣いたくはなかったのだが、職場をまとめていからければならない立場にいる以上、それも仕事だと割り切って考えるしかなかった。

 人それぞれに個性があるから、その人を伸ばそうとするためには、その人にいちばん合ったやり方があるのだが、仕事が集団で行われている場合、したがってチームワークが優先される場合は、全体のバランスも考えなければいけないことをそこでは学んだ。このことは、当たり障りのない態度をとることとはまったく違うのだけれど、人間関係を乱してしまうと集団の力も弱まってしまうから、管理監督者が常々留意していなければならない内容である。  
                                      2011年8月号

 
 
 
第60話 エネルギーが
             実際には手が届かないところにあった


 実際に計画停電のエリアにある工場にお伺いしていた。計画といっても、ずっと先までの実施状況が明確になっているのではなくて、その日の消費電力量を見ながら翌日の実施範囲を決めるというものだから、極めて不安定な状態の中で生産活動を維持しなければならなくなってしまっていた。
 
 3時間の計画停電が通常の定時時間中に実施された場合、その間だけ従業員に自宅に帰ってもらうなどということはできないから、それ以降の操業は停止せざるを得ない。設備として冷蔵庫を使っている場合には、そこに収納している冷凍品がどうなってしまうのかも考慮しなければならないことになる。

 顧客からの注文と、生産できる量とを付き合わせて、納入する時間帯と数量を細かく調整しなければならないから、そこに膨大な工数が必要となってくる。一方では材料の調達が困難になり、一度受け付けた注文のキャンセルも発生する。

 今まで人類がコントロールしていたと思われていたエネルギーが、実際は自然界の法則の範囲内での運用でしかなかったこと、したがってその基盤は脆弱なものであるということを、ここで手痛いかたちで認識させられたことになる。 
 
                                      2011年7月号

 
 
 
第59話 部下を守れない人は組織も守ることはできない

 ひとつの部屋の中に、3人の人物がいる場面を想定して欲しい。部下と、自分と、自分の上司である。上司は、仕事の上で失敗したことを咎めている。そんなときに、いちばんやってはいけないことは、たとえ部下の失敗であったとしても、その部下を上司の目の前で責めることだ。上司である自分が取らなければならない行動は、「私の責任です」と言って潔く謝ることである。

 権限は部下に委譲することができても、責任は上司が取らなければならない。これが組織活動の基本である。結果として部下が失敗したとしても、常にその行動を把握しておき、失敗に至る前にフォローするのが上司たるものの役目である。だから、失敗したとしても、本当は部下には責任がないのである。

 自分を守るために上司の前で部下を責めた場合、その部下はいったい何を感じるであろうか。少なくとも、この上司のために働きたいなどと思うはずがない。別に上司のために仕事をしているわけではないが、そういった感情の積み重ねがやる気を阻害し、やがては組織力をも低下させているのだということを、もっと自覚していただきたいものだ。
                                       2011年6月号

 
 
 
第58話 創造的な議論をしなければ
                前に進めないではないか


 事業仕分けをリードした「構想日本」の代表の方は、「まだ慣れていないから無理かもしれないが、自分の主張をしたり、政策の論議に走ってしまう。政策は議会で論議するものであって、仕分けは使われたお金をチェックする場だ。したがって、先のことを論議するのではなく、過去がどうであったのかに注目して欲しい」とおっしゃられた。
 
 私はそれに対して、「数字というのはあくまで結果であって、その結果は施策から生み出されたものだ。この施策を「政策」と言うのかどうかはよくわからないが、そのことの善し悪しを抜きにして、廃止とか継続といった判断はできないではないか」と反論した。前もって質問を提出し回答をいただいてあるのだから、仕分けの場では、仕分け人が質問をして担当者が答えるという対立軸を作るのではなく、これからどうやっていこうかといった創造的な議論を、お互いがしようではないかということも提案した。
 
 私が普段あたりまえに思っていることを発言しても、「それは民間のことだから」といった雰囲気にすぐなってしまうことが不満だった。そして、その場をなんとかして乗り切ろうとする行政側の態度が気になって仕方がなかった。お互いがどの立場にいるのかは抜きにして、もっと前向きで創造的な議論を交わしたかったというのが、初めて事業仕分けに参加させていただいた私の、率直な感想である。

                                      2011年5月号

 
 
 
第57話 改善とは一方ではマンネリとのたたかいである 

 固定観念を打破しながら、現状をよりよい方向に変えていくことが改善活動であるが、推進者がよほど注意をしていないと、時間とともに目に見えない膠着状態に陥ってしまうことがある。日常の活動が単なるスケジュール消化に終わってしまい、メンバーの主体性が感じられなくなっているとしたなら、それはマンネリ化の兆候の現れだ。

 たとえば改善活動の日程の立て方にも工夫が必要になってくる。私が体験したマンネリ化のひとつは、1日を1時間ずつ区切って部門ごとの計画を立てていたのだが、いつの間にか「与えられる」という立場が定着してしまい、自らが進んで取り組むと行った空気が薄れてしまったことであった。

 そんなときに私が取った方法は、その日のスケジュールを空白にした模造紙を貼りだし、そこに部門で活動したい時間帯を書き込めるようにしたことである。最初は全く埋まらないことも覚悟をしたが、やがてそれは杞憂に終わってひと安心したものだ。こんなことをしてまでも、改善活動を押しつけではない、現場の人たち自身のものものにしたかったのである。
                                      2011年 4月号

 
 
 
第56話 定着するかしないかは
             管理者の執念によって決まる
 

 固定観念を打破しながら、現状をよりよい方向に変えていくことが改善活動であるが、推進者がよほど注意をしていないと、時間とともに目に見えない膠着状態に陥ってしまうことがある。日常の活動が単なるスケジュール消化に終わってしまい、メンバーの主体性が感じられなくなっているとしたなら、それはマンネリ化の兆候の現れだ。

 たとえば改善活動の日程の立て方にも工夫が必要になってくる。私が体験したマンネリ化のひとつは、1日を1時間ずつ区切って部門ごとの計画を立てていたのだ
が、いつの間にか「与えられる」という立場が定着してしまい、自らが進んで取り組むと行った空気が薄れてしまったことであった。

 そんなときに私が取った方法は、その日のスケジュールを空白にした模造紙を貼りだし、そこに部門で活動したい時間帯を書き込めるようにしたことである。最初は全く埋まらないことも覚悟をしたが、やがてそれは杞憂に終わってひと安心したものだ。こんなことをしてまでも、改善活動を押しつけではない、現場の人たち自身のものものにしたかったのである。
                                      2011年 4月号

 
 
 
第55話 原因がヒトの問題になってしまうと
                     なかなか解決はしない
 

 不良が発生した原因を追及していくと、「作業者が慣れていなかったからです」という回答が返ってくる。そしてその対策は、「教育をする」というような抽象的な内容になっている。そんなときに私は、「習熟するまでにどのくらい必要なのですか?」と問いかける。その答えとして、「○○日です」などという答えが返ってきたならば、その工程の管理者としては失格である。

 確かに習熟という要素はあるが、それを不良発生の原因にしてしまっていてはだめだ。なぜならば、「慣れていない」作業者を投入するときには、それなりの対応をしなければならないはずだからである。たとえば事前に教えなけれはならないことがはっきりしていて、本人が理解するところまでフォローしたのだろうか。スキルが一定以上になるまで訓練をして、それを実行できることが確認できているのだろうか。

 本当にヒトに原因があるならば、その人を変えるしか方法がなくなるが、多くの場合は管理・監督者の前段取りが不十分だからであって、作業者に責任を押しつけるところまでは至っていないものだ。だから、安易に「慣れ」などという言葉を口にするということは、自らの仕事の質の低さを認めることになるのだ。
                                      2011年 2月号

 
 
 第54話 改善活動が
           数字のお遊びになってしまってはいけない
 

 発生している現象を客観的に捉えることができるのは数字であることに間違いはない。問題を解決することよりも、問題そのものを発見することの方が難しいから、そしてその問題は、想像として捉えるよりも数字で解析した方がその後の対策に確実に結びつくから、現象をできるだけ数字に落とし込もうとする。

 しかしながら、数字が物語っているのはある側面からの切り口であって、そこから何をつかみ取ることができるかという視点が不足していると、対策に結びついていかないばかりか、できない理由の裏付けになってしまう。決して少なくはない労力を投入して算出した数字なのに、問題を発見することすらできず、したがって真の原因にまで踏み込んでいかないなんてことになると、あまりにももったいないではないか。

 コンピュータの活用が進んだことにより、いろいろな経営分析の手法が導入され、求める数字がすぐに手に入るようになった。しかしその反面、現場でムダを発見するという嗅覚みたいなものが衰えつつある。現場に入っていけば人の動きやモノの停滞が問題を提起してくれているのに、それよりも机上で数字をこねくり回すことを優先しているような傾向がありはしないだろうか。与えられた数字を読み取ることよりも、自分が必要とする数字を求めることの方が、現場改善の主人公としての行動指針なのである。

                                      2011年 1月号

 
 
 第53話 あるべき姿を押しつけるのが改善活動ではない


 私が工場の改善活動の推進役をしていた頃、社内の部品の在庫を削減するために、1日に4回という納入サイクルを設定したことがあった。その対象となったのは発泡スチロール材。なぜそれがターゲットになったのかもうおわかりであると思うが、とにかく広いスペースを占有してしまうからである。と、ここまでは理論通りの進め方であるが、当時の私が配慮できなかったのは、発泡スチロールの調達先が100kmも離れていることであった。

 そこで先方はどうやって対応したかというと、大型トラックに製品をいっぱい詰め込んで、工場の駐車場に待機していたのである。1日に4回の納入だからといって、その都度必要な分だけ小型車で運ぶとなると、運送費が増えてしまうことは誰にだって計算することができる。工場の収納スペースは削減させることができたが、ただそれが駐車場のトラックに変わっただけのことで、発泡スチロールの生産工程との関係は何も変わっていなかったのである。
 
 この改善活動の方向は、自社の組み立て工程の横に発泡スチロールの製造機を設置し、必要な分を1個ずつ供給しようということになったが、最終的にはコスト面で折り合わずに、実現するまでにはいたらなかった。今になって反省していることは、相手の条件を全然考慮せずに、あるべき姿を押しつけてしまったことについてであ
る。
                                      2010年 12月号

 
 
 第52話 この人のために成功させたいくらいのことを
                 部下に思わせてみろ
 

 困難な局面を打開するためには、そしてその対策のための対応が長期間続く場合には、社員だからとか、職務だからとか、指示されたからとかいった、通常のあたりまえの意識だけではとても乗り切れるものではない。1ヶ月間1日も休みが取れなかったり、徹夜の日々が続いたり、無理だと思うことも実行しなければならない場合に、どうやってモチベーションを維持させればいいのだろうか。

 そんな場合のいちばん大きな要素は、上司との信頼関係が築かれているかどうかにあるのではないだろうか。言い方を変えれば、この人のためになんとかしてやろうといった気持ちになれるかどうかである。外部との調整を積極的にしてくれて、壁にぶつかった場合にはサポートをしてくれて、手柄は部下にものにする。そんな上司のもとでの苦労なら、弱音を吐かずに頑張ろうと思うはずである。逆に、上ばか り見ている「ヒラメ」型の上司の下では、苦労することなんかばからしくなってしまう。

 こうやって考えていくと、職位が上になればなるほど、本当に必要になってくるのは専門性ではなくて人間性であるのだ。この人間性を職場の上下関係に置き換える
と、いつも部下を成長させることを考えて仕事の指示をしているかどうかである。欠点を指摘するのではなく、長所を伸ばそうとしているかどうかである。

                                      2010年 11月号

 
 
 第51話  異質なものを受け入れることができることも
                    実力のひとつだ
 

 良薬口に苦し。他人からいろいろ言われたことでいちばん胸に突き刺さるのは、「本当のこと」を言われたときである。常々本人も感じていて、しかしながら認めたくなかったことを、ズバリと指摘されることほど怖いことはない。誰にでも自己防衛本能があるから、異質なものを受け入れようとしないのは自然な動きであるが、むきになって反発しようとする様子を目にしたりすると、この人には成長は無理なのではないかと思ってしまう。

 さらに管理者の場合は、固定観念の鎧をまとっている人ほど本当のことを報告してもらえないから、風通しの悪い硬直化した組織が加速度的に形成されてしまう。過去を振り返ってみると、仕事がやりにくい環境は、上司が誰であるかによって決まってくるなんてことが、少なからずあったのではないかと思う。物わかりのいい上司になる必要はないけれど、部下の主張を受け入れるだけの懐の深さは欲しい。

 自分が変わることができるのは、何らかの外部からの影響を受け入れることができたときである。それも思い込みではなく、きわめて客観的に自分の価値観と照らし合わせて取捨選択ができたときなのだ。この異質なものをまずは受け入れてみて、ときには自分自身を否定することもできる実力がなければ、本当の意味で変わることはできないから、世の中の変化にも追従していくことができないということになる。
                                      
                                      2010年 10月号

 
 
 
第50話  捨てることをなくさなければ
            本当の在庫削減にはならない
 

 材料が食品の場合は、長期保管が困難だから必然的に都度発注をするしかなくなってくる。その結果、倉庫内の在庫の回転日数は1.5日以内になっている。毎日発注できることにより、受注の変動にも対応することができるからいいことばかりのような気がするが、私が今抱え込んでいる問題は、捨てなければならない材料が発生してしまっているということである。その原因は、使用する単位と納入される単位とにずれが生じてしまっているからである。

 たとえばひとつの箱に入っているものの単位が1kgであっても、1回の発注単位は12箱に設定されていたりする。そして、1回の使用量が100gであったとしても、1kg単位で梱包されたものを開封した場合には、残った900gは捨てなければならない。なぜかというと、食品には消費期限があるからである。

 在庫を削減することの目的のひとつは廃棄ロスをなくすことであるのに、自分たちの努力ではどうすることもできない問題が残ってしまっている。地球環境を守るためのエコ活動が叫ばれているのに、一方ではこうやって使われずに廃棄されているものが発生している。資源を有効に活用し、ロスから生じる経営負担をなくしていくためにも、少量単位の材料供給を切に望むところである。
                                      2010年 9月号

 
 
 
第49話  個人の立場を主張したいのなら
            組織の重要なポジションについてはならない


 とある工場の生産革新活動の推進役を担当していた私は、その日の活動が終わった夜、メンバーと食事をし、二次会に行き、それがどんなに遅い時間になったとして
も、指導に来てくれていたコンサルタントの先生が、ホテルのロビーを通ってエレベーターに乗るまでを見届けるのが、私の役割だと思っていた。

 ところが今は、信じられないような場面にいっぱい出くわす。ある会社の私の窓口担当者は、食事の途中で「お先に失礼します」と言って帰ってしまった。なんだか、帰りの電車の時間の都合があるようなのだ。それとは別の会社の推進担当者は、「門限です」と言って2次会の途中で帰ってしまった。いずれの場合も、まだ時間的に帰らなくてもいい社員の人たちと懇談をすることができるからどうでもいいのだが、少なくとも推進役としてのスタンスとしては、何かが欠けているのではないかと私は思うのだ。

 また別の会社の社員が、平日の定時時間内にトラブルが発生したため、そのとき会社にはいなかった社長の携帯に電話をしたという。そのときの社長の反応は、「今日はお休みだから…」というものであった。「経営者にはお休みがあるのですか?」というのが私に対する質問であったが、私はポカンと口を開けたまま答えることができなかった。 
                                      2010年 8月号

 
 
 
第48話 現場に顔を出せというのと
               生産に従事しろというのとは違う


 管理・監督者の皆さんに、現場は常に信号を発生させているから、事務室の机に座ってばかりいないで現場に出向きなさいと言うと、直接生産ラインに入ってしまい作業をはじめてしまう人がいる。実際の作業を体験してみることまでは否定しない
が、毎日そんなことばかりやっていたのでは現場に入る意味がない。

 現場に出向けということは、信号をキャッチして問題を発見しろということである。そしてこれからが大事な部分であるが、それをただ部下に伝えるだけではいけない。問題の内容を自分なりに解析し、どこからどのような方法で手をつけたらいいのかいいのかということまで明らかにした上で、その問題を解決させることを指示していただきたい。方法は部下に考えさせることをしてもいいが、自分の中で一定のビジョンを持っていないと、部下が行っていることを途中で修正させることができないからだ。

 だからといって、自分自身の狭い枠の中に部下の行動を閉じ込めてしまい、やがてはやる気までも減退させてしまうような上司になってしまうことを求めてはいない。部下を通じて仕事の成果を上げることができなければ、人の上に立つ資格なんかないから、早く後進に道を譲った方がいい。そういった厳しい立場に管理者は立たされているのだと、まずは自覚することから新たなスタートがあるのだと思っている。

                                      2010年 7月号

 
 
 
第47話  被害者意識から
            前向きな発想が生まれるはずがない
 

 何でこんなことをしなければならないのだろうかとか、自分だけが苦労をしているのは腑に落ちないとか、あからさまに「被害者」を主張していないにしても、誰もが自分自身に与えられている環境に不満を持っていることであろう。そんなときには、それではいったい「加害者」は誰なのかということを、徹底的に追求してみればいい。

 先に答えを言ってしまうようで申し訳ないが、とことん追求していくと、「加害者」みたいなものの源泉は、つまるところお客様の要求であることがわかってくるはずだ。仕事というものには、そのほとんどにお客様が存在し、供給する立場の者とは求めることのレベルが異なっているのである。

 このような背景の中で行っている日常の仕事は、いくらでも「被害者」になれる要素を含んでいる。だから、捉え方によっては「被害者」を装っていたほうが楽なのである。しかしながら、その人を取り巻いている問題は解決しないばかりか、その暗い雰囲気がまわりの人達をも巻き込んでいってしまう。

 仕事が楽しいか楽しくないかは、その人の心のあり方ひとつで決まるといってもいい。「被害者」から脱出するためには、何に対しても前向きな発想を繰り返すことである。「自分がやらなければ他に誰がやるというんだ」というような行動を積み重ねれば、「被害者」意識などどこかに吹っ飛んでいくはずだ。
                                      2010年 6月号

 

 
 
第46話  改善活動を
         ビジョン追求型から問題解決型に転換させよう


 改善活動が何に向かっているのかを明確にするために、あるべき姿を描こうとすることまではわかる。しかし、そのあるべき姿と現実との間には、大きな溝が横たわっているのが普通のケースである。あるべき姿を実現させるために計画を立てるわけであるが、それでもなかなか思うように進まない場合は、向かっている方向は正しくてもその会社の実情に合っていないのだと判断すべきである。

 階段を10段登らなければ目的地に達しない場合にはっきりしていることは、1段ずつ確実に歩を進めていかないと、10段目には到達することはできないということである。ところが、ビジョン追求型の活動は、その一段の単位までもが、あるべき姿に縛られてしまっているのである。したがって、社員の意志とはかけ離れたところで活動が進められるなんてことになってしまう。

 現場に、組織に、そして一人ひとりの社員に実力が伴っていかないと、会社としての総合力にはなっていかないから、その実力を確実に身につけさせるためには、身近に起こっている問題を自分たちの力で解決させていくしかないのである。目の前に立ちふさがっている問題の解決に全員が全力で立ち向かうことにより、そしてそのような活動を積み重ねていくことができていれば、階段を1段ずつ確実に登っていることになるのだ。
                                      2010年 5月号

 
 
 
第45話  かたちだけの営業日報など作成しないこと
 

 営業日報を差し出す相手は、ほとんどの場合が上司になるのだろう。そうなると、本来お客様の方を向いて仕事をしなければならない立場のものが、その瞬間から上司の方向を向くことになる。お客様に対するアクションの内容がそのまま記入され、問題点が明らかになり、上司が何をフォローすればいいかが明確になっていればいいのだが、営業日報というのはなかなかそうはならないのである。

 上司に提出する文書の場合は、それを見て個人の行動が評価されるといった側面も持っている。そうなると、失敗例は、よほど会社にダメージを与えるものでない限りは、なかなか報告できないものだ。それよりも、認めてもらうために、いいことばかりを羅列した日報になってしまうのは無理からぬことである。

 営業というのは、かなりの部分で自主性を重んじなければならない部門である。自分で発想し、計画を立て、アクションを起こし、それを結果に結びつけていく。そんな背景があるのにもかかわらず、毎日、文書で報告しなさいとなると、どうしても仕事が押しつけになり、こじんまりとまとまった範囲での発想しかできなくなってしまうことを危惧している。営業部門の上司がやらなければならないことは、日々の報告をさせることではなく、もっと大きく網を張って、その中で主体性を持って泳ぎ回ることができる営業マンを育てていくことである。
                                      2010年 4月号

 
 
 
第44話 その人の姿勢が身だしなみに表れ、
            やがて行動をも左右していく
 

 とあるメーカーの子会社の社員だった私は、親会社から工場見学にやってくる方々の身だしなみが気になって仕方がなかった。それは、着用しているユニフォームの前のジッパーを、ほとんどの人が開けたままにしていることだった。つまり、法被を羽織るようにはだけたままの状態で現場に入ってくるわけだ。

 そのような人を見かけるたびに、「ここは生産現場ですから、ユニフォームをきちんと着用して下さい」とお願いしたわけだが、生産現場だからというのはあくまで方便であって、着用が義務づけられている作業服であるのなら、きちんと着ることが社員としての基本パターンではないかという思いがあったからだ。そして、それを部下に守らせている職場だから、それを乱すような行為をして欲しくはなかったわけだ。

 作業服をきちんと着ることだけに限らず、その下に着ている服のフードが背中にはみ出していることや、靴のかかとを潰して履いているようなことも許容しなかった。動機付けとしては安全面での支障があることを訴えながらであったが、それよりも大事なことは、仕事に取り組む上での姿勢を問いたかったのである。しかしながらその人の心の中まで覗くことはできないから、まずは目で見てはっきりとわかる服装を正すことから、職場の体質作りをスタートさせていこうとしたのである。
                                      2010年 3月号

 
 
 
第43話  社員の自発的な行動を阻害しているのは
               上司の側ではないのか


 コンピュータのソフト会社から出向してきた社長は、うちの社員は「バカ」だから、いろいろなことを考えずに、コンピュータの指示の通りに仕事をしていればいいのだとおっしゃって、その会社にERP(統合業務パッケージ)システムを導入した。私がそれまで行ってきた現場改善も、そこで否定されることになったのだが、それから3年後にその会社は倒産することになる。

 同じように、社員は上司から指示されたことをそのまま実行していればいいという考え方の経営者もいる。そのことが成立するのは、トップがあらゆる状況をきちんと把握しており、それに対して「正しい指示」ができる場合に限られる。しかしながらそんなことばかりしていると、指示待ちの人間ばかり増えていき、社員が考えようとしなくなってしまう。会社に本当の力をつけさせるためには、自分の意志で行動しようとする社員をひとりでも多く育成することである。

 部下が上司の顔色をうかがっていて自分の意見を主張しようとしないうちは、まだ「自分の意志」が埋もれている状態である。そんなとき上司は、「こいつはダメだ」と決めつけてはいないだろうかと、まずは疑ってみるべきだ。部下は上司の表情を事細かに観察しているものだ。そして自分の行動を決定する。基本に置かなければならないことは、誰だって認められたいということ。それは仕事の成果ではなくて、自分自身の存在についてだ。相手が上司を警戒し心を開いてくれないうちは、上司が求める方向での自発的な行動が、その社員の意志として発生するはずがないではないか。

                                      2010年 2月号

 
 
 
第42話  改善に正解はない。
      結果が伴った方法がいちばんいいやり方なのだ。
 
 食品工場の場合、昼と夜とのグループ分けがはっきりされているから、昼間の改善活動で結果が伴ったとしても、それがそのまま夜にも展開されるわけではない。したがって、私の方から夜の11時とか朝方の4時半とかいった時間帯に工場に入っていき、その時々のメンバーとやりとりをすることになる。

 その場合、昼間とは違った発想を夜のメンバーがして、すでに成功している昼とは異なる方法を採用することがある。このように、私はそれがたとえ同じ工場であっても、手段については一本化しようとは思っていない。それよりも、主人公であるメンバーの意志を大切にしようとしている。この考え方は地域が異なる工場間にも当てはめることができる。同じような生産条件であっても、工場によって違った方法を採用することを否定しないばかりか、むしろ切磋琢磨するために競い合うことが望ましいと思っている。

 問題を顕在化させ、それを解決させるための意思統一をして改善活動に取り組むのであるが、その手段についての方法はさまざまである。私が考えて提案することもそのなかのひとつに過ぎない。だから「こうしなければならない」などという枠にとらわることなしに、自由な発想をどんどん生み出して欲しいと願っている。なぜならば、発生している問題を解決していくことの他に、問題解決能力をひとり一人が身に付けることが、改善活動のもうひとつの目的であるからだ。
                                      2010年 1月号

 
 
 
第41話  自分の都合を主張していたのでは
                 商売は成り立たないのだ
 

 本文で紹介した食品工場では、受注量を自分でコントロールすることができない。つまり、工場の都合のいいようにいかないことが多いのだ。日々の受注量は当然のように変動してくるし、製品の数量にしてもまちまちである。たとえば1回の注文が5食の製品があったとする。5食であっても100食であっても同じ製造プロセスを経なければならないから、1食あたりのコストは5食の場合の方が当然高いものになってくる。つまり採算面で考えると、経済ロットというのが存在しているのである。

 工場側にこのような背景があったとしても、お客様にそれを考慮して欲しいことを訴えてもいいのであろうか。工場はこれだけのキャパシティを保有しているから、いつもそれを埋めていただきたいとか、最低発注数を50食に設定して欲しいとかいったことである。それが工場運営上の現実的な方法だとしても、それをお客様に求めることをしてはいけないのではないだろうか。

 たとえ5食しか注文がなかったとしても、それに対する意思表示は「ありがとうございます」という感謝の気持ちでなければならない。なぜならば、いかにしたら5食を効率よく生産することができるのかを追求することが、工場の果たすべき本来の役割なのだから、まずはお客様の意志を最優先して取り組みを進めるべきなのである。

                                      2009年 12月号

 
 
 
第40話 柔軟な対応をすることが
             前工程のためにならないこともある
 

 当初計画した生産日程に対して前工程が遅れてしまった場合でも、お客様と約束した納期を守るためには、後工程がなんとかして日程を取り戻すしかない。したがって、本当は必要ではない残業とか休日出勤で対応することになる。このことは、企業全体として捉えれば当然の動きであるが、このようなことが毎回発生するようでは、そしてその都度しわ寄せをやり繰りすることが後工程の仕事になっていたのでは、前工程の実力はいつまでたっても向上してはいかない。

 日程遅れの原因が突発的なものではなく、体制的な企業の実力に根ざしているものであればあるほど、後工程が強くならなければならない。できるのなら、遅れてしまったのは前工程の責任だから、自分たちで後工程まで担当して処理をしろと言いたくもなるのだが、専門性を必要とされる工程ではこの方法を採用することはできない。したがって、単に拒否をすることだけでは問題は解決しない。

 そんなときには、前工程の進捗を自分の足や目で確認することだ。日程管理は生産管理部門の役割だなんて割り切っているから、再発を防止する動作が定着していかない。日程遅れの発生そのものを食い止めるためには、前工程にまで入り込んでいくくらいの気持ちが必要だ。そのことによって困る部門がアクションを起こせば、問題の解決方法がより現実的な展開になっていくだろうから、結果に早く結びつくのである。

                                      2009年 11月号

 
 
 
第39話 トップダウンがきちんとしていなければ
                ボトムアップは有効な働きをしない
 

 トップダウンとボトムアップとが、同じレベルで位置づけされているのだとしたなら、それは間違いである。企業は、サークル活動のようにみんなで話し合って進む方向を見いだしていくような、「民主主義」をベースにした組織ではない。会社組織は、厳しい資本主義の競争社会を乗り切っていくための手段として、権限が一部の人に集中されているのである。

 ただし、実際に業務を遂行していくの人の多くは権限を持たない人たちであるか
ら、その人たちが「何をどうしよう」という明確な意志を持っていないと、企業がただの指示待ち人間の集合体でしかなくなってしまい、組織としての大きな力を発揮できなくなってしまう。これらの方向付けや動機付けをすることがボトムアップであると位置づけることができたなら、トップは何をすればいいのかということがわかってくるはずだ。

 まずは明確なトップダウンとしての方向性が打ち出されなければ、ボトムアップなど期待できないことを認識して欲しい。このトップダウンとは、社員の心をも揺り動かすことができるような、明確な意志を伴った魂のこもったものでなければならない。そしてここからが大事なところであるが、社員のひとり一人からボトムアップとしてのやる気を引き出すことができる方法も、同時にとらなければならないのだ。

                                      2009年 10月号

 
 
 
第38話 画一化された品質管理の手法に警鐘を鳴らす 

 巷にあふれている品質管理の書籍には、品質を向上させるためのいろいろなツールの解説が掲載されている。それを読む人が多いからかどうかはわからないが、どの企業でも画一化されたワンパターンの手法を導入しているのが目について仕方がない。

 これらの手法は、品質管理の基礎を確立するのには役に立つのだが、その段階にとどまっている例が多くて、さまざま状況に即した柔軟的な対応ができずに、むしろ手法を導入することの方にウエイトがおかれてしまってはいないだろうか。

 現場は生き物であり、常に一定した条件を保つなんてことは無理なのに、手法の方だけが固定化されてしまっており、ともするとそうしなければいけないなどという発想になってしまう。一度客観的に品質管理の現状を分析していただきたいのだが、意外と保守的になっている要素が多いのである。

 知識というのは、多くのものを取得していることにこしたことはないのだが、それがあるときは自分の中の自由な発想を阻害してしまったりする。品質管理の手法に対しても同じようなことが言えるのではないかと、いくつかの企業の「QC工程表」の運用を見ていて痛感しているのだ。
                                      2009年 9月号

 
 
 
第37話  謙虚さを失い奢りが幅をきかせてくると
                     真実が見えなくなる
 

 私がまだ経営コンサルタントの人たちから教えを請う立場だったころ、違和感を感じるような場面に遭遇した。それは、移動する交通機関について、あたりまえのようにグリーン車のチケットの確保を要求してきたことである。自分が稼いだお金でグリーン車に乗るのであったり、企業の側が善意として申し出たものだったなら何も言わないが、お客さんである企業の経費の一部分になるものに対して、わざわざ必要のないものを要求してくる感覚がどうしても理解できなかった。

 私の反面教師としては、いろいろなコンサルタントの方々のやり方をこの目で見てきて、このやり方では現場に定着しないだろうと思ったことからスタートしている。そして心がけていることは、経営改善のお手伝いをする企業の社員のみなさんに負けないだけの、「いい会社にしよう」という強い思いを持ちつづけること。さらには、社員のみなさんから本音を言ってもらえる関係をなんとかして早く作ろうとしていることだ。

 自分自身に対して戒めてようとしていることは、奢りの気持ちが生まれないようにということである。ゆるぎない自信がなければやっていける職業ではないが、それが奢りに結び付いてしまったのでは、そして謙虚な気持ちを失ってしまったのでは、事実を客観的に捉える目が曇ってしまうと思っているからだ。
                                      2009年 8月号

 
 
 
第36話  「教育」という表現は、
         「訓練」という言葉に置き換えた方がいい


 もう20年以上も前のことになるが、管理者養成学校の「地獄の訓練」に参加しようとする私は、文庫本を何冊かバックに詰め込んだ。訓練期間が13日間もあるから、余暇時間を利用して読書をしようとしていたのである。ところがその目論見は見事に外れて、朝4時半の起床から夜10時の消灯まで、机上の教育はひとときたりともな
く、食事や入浴からお掃除や懇親会に至るまで、すべてを自発的な行動をベースにした訓練のカリキュラムが組まれていたのである。

 他人から価値観を押しつけられたり、日常の行動を監視されるのが大嫌いな私が、こんな訓練に参加しようと思い立ったのは、自分の甘さを自覚したからである。このままの状態では、これからの人生の中でぶつかるであろう荒波を乗り切っていくことが、困難だと思ったからであ
る。マインドコントロールがされるのではないかと疑っていた「地獄の訓練」は、参加した人でなければ理解できないかもしれないが、私のそれからの行動に大きな影響を与えたくらいの、素晴らしい内容の訓練だった。

 人を育てるということは、「教育」などという甘い響きを持つものではなく、「訓練」といった表現をした方がぴったりくるような、泥臭くて厳しい側面を持ったものなのだということ。そして、むしろ教える側にこそ力量が必要になってくるのだと、そのときに痛感したのである。
                                      2009年 7月号

 
 
 
第35話 自分たちの都合をお客さんに押しつけてはだめだ


 製品の納期がどんどん短くなっている。減量経営により残業時間が制限されるようになったりすると、稼働時間が短くなってしまうために顧客の要求納期に対応できなくなってくる。それを解消させるためには一部を外注展開させればいい場合でも、外に出て行くお金をできるだけ少なくしようとするから、顧客の納期をなんとかして延ばしてもらえないかといった発想になってくる。ひどい場合には、それを交渉するのが営業の役割だなどと言ったりしたくなる。

 まず基本に置かなければならないことは、納期を守らなければ仕事はなくなってしまうということだ。この経済不況の中、どの会社だって仕事がなくて汲々としている状態だ。品質はよくてあたりまえ、価格は付加価値が伴ってくるから一律に論じることができないが、納期については間に合うか間に合わないかとはっきりしてしまうことである。だからこそ、企業の実力がそのまま現れてしまうのだ。

 大切なのは、現状のままでは納期には間に合わないという視点を持つことである。その上で、何がそれを阻害しているのかを明確にして、その原因を取り除いていくのが改善活動なのである。したがって「なんとかしろ!」などという精神論を唱えたところで解決できるものでもない。お客さんの要求に応えられないのは、自分たちの実力がまだまだ低いのだといった捉え方をしよう。そして、現状をどう変えていけば顧客の要求する納期に対応することができるのかという活動に、みんなで取り組んでいこうではないか。
                                      2009年 6月号

 
 
 
第34話 捨てることよりも再発することの方が
         はるかに「もったいない」ではないか
 


 余ったものを「もったいない」からと、捨てずに保管しようとする気持ちは大切なことである。とっておけばいつかは使われるときがくるかもしれないからと、そして捨てることはどこか後ろめたさが伴うからと、いつまでも大事にとっておこうとするのはあたりまえの感覚である。確かに昔は在庫の多さが資産として計上され、見かけ上の企業の実力として評価されていた。しかし今はキャッシュフローの時代。不稼働在庫を寝かせておく余裕などないのだ。

 前にいた会社の私の上司は、「部品はお金だと思え」ということをことあるごとに叫んでいた。千円札がそこに転がっていれば誰でも拾おうとするのに、それが部品にかたちを変えてしまったとたんに無関心になってしまうことを戒めようとしていたの
だ。だからといって、倉庫にたくさんの部品があるから、そこに価値が蓄えられていると思っていてはいけないのだ。

 不稼働在庫の多さがいろいろな問題を引き起こすわけだが、その問題は解決することができなくなってから表面化する場合が多い。それを防止するためには、捨てることが「もったいない」と思う感覚を、また同じことをしなければならないことの方が「もったいない」のだと切り替えることが必要になってくる。
                                      2009年 5月号

 
 
 
第33話 リストラされるべきなのは
        もしかしたら管理者層なのではないか
 

 リストラとはリストラクチャリングの略で、本来の意味は「再構築」であるのにもかかわらず、いまや従業員を解雇することのように捉えられている。したがって、その目的は人件費を削減させることであり、ターゲットは最下層の従業員たちに向けられてしまっている。だからここでもう一度、リストラの意味を考えて見ようではないか。

 企業を取り巻く経営環境は刻々と変化し、ときにはダイナミックな変動にさらされ
る。そのことに柔軟に対応していくのが企業経営であり、従業員を率いている管理
者の采配なのである。この不況もこの変動のひとつであると捉えられるとしたなら、企業経営が行き詰まってしまうのは、経営者や管理者にその責任があると言えるのだ。ところが、それを社会情勢が悪いからだというように、自分以外のところに責任を転嫁してはいないだろうか。

 このように、責任はよそにあるといった考え方をしているうちは、なかなか解決策というのは見えてこないものだ。特に経営者や管理者は、自分自身を客観的に見つめながら、すべて自分に責任があるといった捉え方をして欲しい。そこから出発することしか、本当の展望を見い出すことはできないのだと思っている。もしかしたら、再構築しなければならないのは、管理者自身の意識であり、ひとつひとつの行動であるのかもしれないのだから。
                                      2009年 4月号

 
 
 
第32話 人材派遣業は
        どのような方向に進んでいけばいいのか


 私がある人材派遣会社の役員を兼務していた時期、何とかして実現させたかったのは、企業の構内作業を丸ごと請負で受注することであった。ひとつの生産ライン全体の管理を担い、そこに改善手法を持ち込むことによって生産性や品質を向上させ、その企業の中での派遣会社の存在価値をゆるぎないものにしたかった。

 そのときにも、ワーカーとして日本人を採用することは想定していなかった。その理由としては、派遣社員を望んでいる日本人にはハングリー精神が欠けていることと、企業との雇用関係は個人として確立すべきものだと考えたからである。そしてその背景にあったのは、単なる工数の提供をするだけの派遣会社では、このあと生き残ることは難しいのではないかという思いであった。

 生産現場を請け負った場合には、その月の生産高と品質の目標をあらかじめ掲
げ、それを達成した場合にはこれだけの配分をしようということを明確にし、それに向かって全員が努力をするような現場を描いていた。残念ながらそれは実現しなかったけれど、これから人材派遣業が存在価値を発揮させていくためには、派遣業がスタートしたときに行われていたような、スペシャリストを提供できるかどうかが、その分かれ目になっていくのではないだろうか。したがって、テーマとしては重すぎるかもしれないが、企業にはないものをどうやって提供することができるのかが、人材派遣業の生き残る道だと思っている。
                                     2009年 3月号

 
 
 
第31話 社員に経営者と同じ感覚を
         持たせようというのは所詮無理である
 

 経営者は労働者を搾取する存在であり、春闘の賃上げ交渉は配分闘争であるといった、階級的な捉え方をしていた時期が私にはあった。労働組合運動にどっぷりと浸っていた頃を思い出しながら、あの頃はなんて「楽」だったのだろうかと当時を振り返って思っている。なぜならば、自分たちの権利だけを主張して要求をぶつけていればそれでよかったからである。

 今、このような経営改善の仕事に取り組んでいる中から感じているのは、経営者が日常において抱えている苦悩であり不安である。なぜならば、経営が破綻してしまえば、社員は職をなくすだけで済むのに対して、経営者は私財さえ失ってしまうような、社会的な責任を取らなければならない立場であることだ。

 資金繰りひとつを取ってみても、これは、その立場になってみないと本当はわからないことだ。だから、社員に経営者の感覚を持って欲しいと願望することはわかるのだが、それをベースに企業活動を組み立ててはいけないと思うのだ。社員ができることは、与えられた職務において全力を尽くすことと、自分の職位のひとつ上の仕事をこなすことを心がけることだ。そして、その人たちを経営者が束ねていくのである。

                                     2009年 2月号

 
 
 
第30話 内部告発だけが問題解決の手段だなんて
                情けないではないか。
 


 食品の産地や消費期限の偽装をはじめとして、社会問題となっている企業の「不祥事」の多くは、そこに働いている人か過去に働いていた人による「内部告発」により発覚し、それが社会に知れ渡った例がきわめて多い。このように表面化しないものは、企業の内部で明らかにされ解決にいたっているのかもしれないが、印象としては企業の自浄作用が働かなくなっていると思えてしまうのである。

 一方では、日常発生している問題がわかっていながら、それを経営者にぶつけることができない立場もよく理解することができる。誰だって自分がかわいいから、職を賭してまで問題に立ち向かうことを躊躇するのが、正常なサラリーマンの感覚であろう。

 CCR(企業の社会的責任)という言葉が一般的になってきているが、それは建前であるから、仕方なく取り組むといった考え方がまだ根底にありはしないだろうか。企業が社会の中で永続的に生き残っていくためには、社会から認められることが必要であるとしたなら、CCRは別に社会のためにあるのではなく、会社自身のためにあるのだということを、経営者が認識しなければならないのだ。だから、内部告発で問題をつきつけられなければ「気が付かない」ような経営者は、企業の舵取りをする資格はないのだ。
                                     2009年 1月号

 
 
 
第29話  経費の節減は
        ムダを取り除く延長線上に位置させよう。
 

 経費の削減の活動は、ともすると現象を捉えただけで方向付けをしてしまうことが多い。たとえば、「何がどのくらいかかっているからそれを減らせ」とか、「すべての経費を何%節減しろ」といったような指示である。指示された部門に実力がある場合
は、それを具体的な活動テーマに落とし込み、担当を決め、スケジュール化しながら推進していくことであろう。

 ところが、何の裏付けもないまま結果を出そうとすると、単なる精神論に陥ってしまい、それを解消しないままにしておくと、いろいろな歪みがあちこちに生じてしまうことだろう。そんなときは、現象系ではなく、原因系にまで踏み込んだ活動へと切り替えていくのである。つまり、「削減=切り落とし」から、「ムダの顕在化→ムダ取り」への転換である。

 経費というのは、体にたとえれば血液の役割をもっている。体をそのままにしたまま血液の量を減らしていけば、貧血症状からそれが高じると死にまで至ってしまう。ところが、メタボリック化した体型をスリムにしながらならば、血液も減らすことが可能になってくる。このように、経費の節減はそれだけを単独で考えられるものではなく、現場改善の延長線上にこそ生み出されるべきものなのである。
                                     2008年 12月号

 
 
 
第28話  隣の席にいる人にメールを打つことで
                何を向上させようというのか。


 私がお伺いしている会社で、社内メールを一時凍結させようという動きがある。社員のひとり一人にパソコンが配備され、それを社内ネットワークで連結させているのだから、いかにも全員のベクトルが一致しそうなものだが、それがかえって社内のコミュニケーションを悪化させているとの判断からである。

 地域に拠点が分散されており、電話以外には直接対話することが困難な場合ならまだわかるのだが、同じフロアーに机があって、ひどい場合にはすぐ隣りに座っている人に対しても、意見のやりとりをメールを使って行うなんてことになってしまうと、相互の関係は対話ではなく一方通行になってしまうからだ。

 私のような外部の立場のものが働きかけ行う場合、実践して実際に結果を出すのはその会社の方たちだから、そして私には指示命令権など存在しないから、私は社員のみなさんが心を開いてくれて、本音を言ってくれる条件作りのための努力をす
る。そうしないと、私の意志が実際には伝わらないと思うからである。

 企業には組織があって、上司の命令をそれぞれの立場で具現化するのが仕事の基本ではあるが、そこに社員の主体的な意志が伴わないと、高いレベルでの成果は期待できない。だからこそ、腹を割って、徹底的な議論を交わすことによって、一致点を見いだすという努力をしなければならないのだ。近くにいる人にメールを送る必要があったとしたならば、立ち上がってこちらから出向いていき、まずは相手の意見を聞くことからスタートさせようではないか。
                                     2008年 11月号

 
 
 
第27話 部品が腐ってしまうものだと思えば
          安易に在庫を持つことはできない。
 

 食品工場の場合の材料調達は、毎日発注するのが基本になっている。そして、今日の午後3時までに発注すれば、翌々日の午前中には入荷するというのが一般的なパターンである。つまり、調達リードタイムは1.5日である。なぜこんなにも短いのかはすでにおわかりかと思うが、食品には賞味期限や消費期限があり、長期間保存しておくことが困難であるからだ。

 食品だからといって、電気部品などに比べて短期間で製造できるものではない。野菜なんかは、種を蒔いてから収穫するまでに何ヶ月間も必要とされる。調達と供給との関係だって、欲しいものが欲しいときに欲しい量だけ必要になることには変わりない。ただそこに、長期間保存しておくことができない必然性から、流通も含めた供給の方法にいろいろな工夫がなされているだけである。その結果、食品工場の材料の在庫は、2日分以上もあると問題にされてくる。

 一般的な部品は、食品の材料のように劣化のスピードは速くない。ここにどうしても甘さが入り込む余地が生じてしまう。欠品が怖いから余分に在庫をしておこう。いつかは使われることになるから不良在庫にはならないだろう。一度にまとまった数を発注した方が効率的だ。などなど、いつまでも腐ることがないという背景が、在庫に対して緊迫感を欠く行動となっているのである。
                                     2008年 10月号

 
 
 
第26話 部下は上司の背中を見て
           自分の行動の質を決めている。
 
 その折々にあたった上司によって、仕事がやりやすかったりやりにくかったりすることはよくある。部下は上司を選ぶことができないのだから、その上司を「上手に使う」ことをしないと仕事の成果を上げることができないのであるが、一般的には部下はそんな骨の折れる努力をしようはしない。したがって、部下を伸ばすには、上司が明確な展望を持ちながら、一歩も二歩も前を歩き続けていることが必要になってくる。

 部下は、意識するしないは別としても、上司の顔色を窺いながら仕事を進めているものだ。自分の部下を見るよりもはるかに厳しい見方で、上司の行動を観察してい
る。そして、このくらいまでなら咎められないだろうという物差しを設定して、自分自身の行動の質を決めているのである。

 部下が上司を追い抜くことができないと言われているのは、部下には上司を上回る決定権がないからである。となると、部下に能力を伸ばしたいという意志があっても、それを受け止めて推進していこうといったスタンスが上司にないと、その職場には閉塞感が蔓延してしまうことになる。 

 部下に問題を解決する力が足りなかったのなら、上司である自分にお手本となる行動が不足していると思え。部下にいまひとつビジョンに裏付けされた仕事ぶりが欠けているのなら、自分自身の戦略がはっきりしていないのだと思え。このように、部下を伸ばす伸ばさないかの鍵は、上司自身が握っているのである。

                                     2008年 9月号

 
 
 
第25話 失注の例にこそ学ぶべきことがある 

 失注とは、何らかの理由で注文を取るまでに至らなかったことである。顧客の要求仕様に沿うものが提供できなかったり、納期やコストで競合他社との選別に負けたりと、それにはいろいろな理由があることだろう。なぜこのような事例が大切かという
と、ここに至るまでの経過の中に、その会社の未熟な部分や欠陥がいくつも含まれているからである。

 たいていの場合、顧客別のファイルに受注した製品の履歴は綴じ込まれていても、失注した案件の経過やそれを分析したものはほとんどといっていいほど含まれてはいない。ということは、失注したひとつひとつの案件に対する十分な総括もできてはいないと思っていいのだろう。そればかりでなく、失注は失敗例だから、あまり公(おおやけ)にはしたくないなどという気持ちも働いているかもしれない。

 工場側は「営業がちっとも仕事を取ってこない」と言って嘆き、営業側は「工場が顧客に提供できるような製品を作ってくれない」と非難している。はっきりしていること
は、売れない責任をお互いがなすりつけ合っていても、問題はちっとも解決しないということだ。だから、いろいろな改善のための材料が含まれているはずの失注の事例を分析して、次の展開に結びつけていこうではないか。
                                     2008年8月号

 
 
 
第24話 生産実績を
         いちばん把握しなければならないのは社長です。

 赤字体質の会社を水面下から引き上げるべく、経営数字のひとつひとつについて分析をしていった。経費を削減することも大事ではあるが、どうにも改善活動の雰囲気が暗くなってしまって好ましくないし、まずは売り上げを確保しないことにはP/Lそのものが成り立たないからと、毎日の売り上げの数字を明らかにすることにした。

 横軸に1ヶ月の日数と、縦軸に売り上げ金額を入れたグラフを作成し、目標がわかるように斜めの赤色の斜線を入れた。毎日の実績金額を明らかにし、それを累積した数字をプロットすることによって、その時点でどのくらい不足しているのかがわかるからと、社長にその作業をお願いして帰って来た。

 次回にお伺いしたときに経過を見せて欲しいと言ったところ、社長は手元にはないから担当者のところに取りに行くと言うのだ。どうも、その作業を担当者にさせて、本人は目を通していなかったようだった。活動が途につくまでは、社長自らが実行して欲しいと思ったのに、もう丸投げをしてしまい数字さえ進行形で把握していない。

 特に中小企業の場合は、社長が数字の推移を把握して的確なアクションを取る必要がある。改善活動のスタートにあたっては、それを社長自らが実践することからスタートさせたいのである。それを担当者が記録するのではなく、社長が毎日質問し自らプロットすることが、社内のモチベーションを向上させていくのだと思って欲しいのです。

                                     2008年 7月号

 
 
 
第23話 中途半端な手助けは
           その人の成長を阻害することがある
 


 小学校の何年生の時の出来事だったのかは確かではないが、図工の時間に起きた出来事 は、今でも鮮明なかたちで記憶の中に残っている。みんな、秋の学内展覧会に出品する絵を描いていた。その展覧会には全員が出品するのであるが、すぐれた絵や習字には金色や銀色の色紙が貼られたので、自分の作品がその対象になっていた場合など、それを家族に見てもらえるのが喜びであった。

 私は天竜川の絵を水彩絵の具で描きながら、川の中に点在する石の間を流れていく水を、うまく表現するのに苦労していた。そうしているうちに担任の先生がやってきて、私の絵に手を加えはじめた。その結果、見る見るうちに水が本当に流れているようになり、私が思い描いていたものよりも立派な絵が出来上がった。

 展覧会に展示された絵を見た家族は怪訝そうな顔をした。ひときわ目立って完成度の高かった私の絵に、金色の色紙はおろか銅賞を表す赤色の色紙も貼られていなかったからだ。その訳は、私の絵に手を加えた先生が賞を決めていたからであ
る。児童の力だけで製作されなかったものは、賞の対象にされなかったのは当然のことだ。しかしながら、私が心に受けた傷がいかに大きかったかは、未だに記憶が薄れることがないことが証明している。
                                     2008年 6月号

 
 
 
第22話  会議の時にはメモは取らずに議論に参加せよ!
 

 上司から仕事の指示を受けるときは、その内容をメモすることを心がけたい。指示された内容を正確に受け止めるためには、記憶だけでは不十分だからである。ただし、そのメモの内容を見ながら、上司に指示の内容を確認する動作があって初めて、そこでメモしたことが有効になる。

 会議の場で、議事録を作成する担当でもないのに、ノートにやたらに細かく記録をしている人がいる。そんな人に限って、実際の行動に結びついていないことが多い。メモをすることよりも議論をすることの方が重要なのに、ノートに文字を連ねる作業に没頭していて、ちっとも発言をしようとはしない。

 会議の場ではメモを取らないことを心がけよう。そのためには、要点をまとめた記録を早く発行することである。こんなときに、その場で書いたことをプリントすることができる電子黒板(ホワイトボード)が便利だ。これさえあれば、わざわざ議事録を作成する必要はない。そして、どうしてもメモをしなければ納得できないのだったなら、そこでプリントした用紙に会議が終わった後で自分が必要なことを記録すればいい。

 そのためには、司会者はホワイトボードに向かって要点を記述しながら会議を進行させること。そうすることにより、机に向かって、背中を丸めて話し合いを進めるより
も、より活気にあふれた会議になっていくことであろう。
                                     2008年 5月号

 
 
 
第21話  企業を助けなければならないのは
                いったい誰なのだ。
 

 私が懇意にさせていただいている税理士の先生の顧問会社が倒産した。その会社には私の友人も勤務していた。倒産する半年前くらいには、ある銀行から一定額の融資がされた事実があった。それでも、その会社を救うことができなかった。経営者家族は夜逃げをし、友人は一瞬にして生活の基盤である職を失った。

 私はその税理士の先生に、「なんであなたがついているのにこんな状態にさせてしまったのですか?」と食いついた。経営の数字をいちばん詳しく把握していて、客観的な判断ができる立場のあなたが、経営者に的確なアドバイスと指導をしなけれ
ば、他に誰ができるというのですかと問い詰めた。

 実際は、その税理士の先生も、銀行以外からも借り入れを起こしていることまで
は、把握できてはいなかったようである。ということは、月次で作成している試算表
も、税務申告のための損益計算書も貸借対照表も、ウソの数字の羅列だったのであ
る。

 少なくても、こうなってしまう前に何らかの兆候があるはずだから、「このままの状態だとこうなってしまいますよ」くらいの助言をすべきだったのではないか。そして本当は、まだ傷が浅い段階のうちに、社長と一緒になって経営改善を進めて欲しかった思うのは、当事者ではないから言えることなのだろうか。
                                     2008年 4月号

 
 
 
第20話 高度なタテ持ちが
       品質や生産性を高めるばかりとは限らない
 

 ベルトコンベアにおける分業生産から、多工程持ちのセル生産へと、工場におけるモノ作りが変化してきた背景には、多種少量生産に対応しなければならないといった必然性があったからである。同時に、一人生産の場合は、ライン編成効率が100%になるといったメリットを見いだすことができた。ところが、本文にあるような食品工場における生産工程では、多工程持ちの進め方に限界を生じてしまった。

 その理由のひとつは、人員を固定できなかったことである。毎日日替わりで工程に入ってくる作業者に、高度なスキルを修得させようとしても無理なことで、作業のひとつひとつをできるだけ単純化させることが現実的な選択であった。もうひとつの理由としては、盛り付け時の材料を手で扱うしかなかったために、片手で1品目、両手と治具を組み合わせても、一人で最大3品目しか担当させることができなかったからである。

 そこで、細分化された担当が違う工程を、いかにして結びつけていくかということにエネルギーを注いだ。そのひとつの方法が助け合いであり、もうひとつの動作が順次点検である。ともすれば無機質になりがちなベルトコンベア作業に命を吹き込むべ
く、全体の最適化を意識した上での個別の作業にしていこうとしている。改善のための方法についての選択肢は何種類もあるから、その中で、今の条件にいちばんふさわしい方法を選んで実践することが、成功への近道だと思っているからである。
                                          
                                     2008年 3月号

 
 
 
第19話 納期が確保できないのなら
        設計部長の後ろの壁に大日程を貼り出せ
 

 設計の日程が遅れることにより、後工程にしわ寄せがおよんでしまう。まず、図面が出ないことには材料や部品の調達を開始することができない。調達リードタイムが長くなるものについては、予測で発注しなければならなくなるが、一歩間違えると不稼働在庫になってしまう可能性を秘めている。製品としての機能や品質を十分検証する時間がなくなってしまうと、問題が解決されていないのに見切り発車をしなければならなくなる。そして、製品になってから市場でトラブルが続出してしまうことになる。生産工程は、完成度の低い製品を短期間にかたちにしなければならないため、どうしてもやっつけ仕事になってしまうだろう。

 このような影響が出てしまうのにもかかわらず、設計の納期がなかなか守れないで困っているなんてことはないだろうか。そんなときは、設計部長の背後に設計工程の大日程を大きく張り出すことだ。このことは、納期が遅れてしまう責任は、すべて設計部長にありますということを宣言することを意味している。日程を守るのは部下の仕事だなどと思わずに、問題解決のために体を張って欲しいのだ。

 その大日程に、このままいけば計画を守れそうにない場合は、担当者が黄色の付箋に理由を記入して貼り付ける。後工程に多大な影響を与えそうな場合は、赤色の付箋を使用する。このように、まずは問題を事前に設計部長の目の届くかたちで顕在化したいのだ。そうすれば、一度貼られた付箋を取るような努力をしなければならなくなるし、そういかない場合は設計部長が乗り出していくしかないのである。

                                     2008年 2月号

 
 
 
第18話 退社するときは
          今の仕事をやり切ってからにしよう
 

 今の仕事をやり切るとは、与えられた仕事を中途半端な状態にせずに、きちんと仕上げなさいなどという単純なものではない。そうではなくて、今いる会社のポジションでの責任は100%こなしてしまい、今保有している能力では、もう挑戦すべき課題がない状態にしなさいということだ。つまり、自分の中ではきちんと卒業した上で、次の学級に入学して欲しいのだ。

 それと反対のパターンは、今の仕事がどうにも嫌になって、どこか別の会社に行けば何かいいことがありそうな気がして、目先を変えるために転職を繰り返すことである。転職を繰り返すなどという表現をしたが、このような場合は、決まったようにひとつの会社に定着できないでいる例が多い。そして、当初の目的も果たせないまま、また同じことを繰り返してしまうようになる。

 誰にでも夢はあるし、それを実現させたいと思っているだろうし、いろいろなことにチャレンジしたいという願望も持っていることであろう。それを転職をすることによって実行しようとする場合には、現状から逃げるような辞め方をしても、決して次の人生は拓けないことを肝に銘じて欲しいのだ。つまり、挑戦しようとする前向きな行動の先にしか、新しい世界は表れてはくれないのだということだ。
                                     2008年 1月号

 
 
 
第17話 発注する数量によって
        価格が異なるなんておかしいではないか
 


 工場が加工部品を調達する場合、ひとつだけ売って欲しいとお願いしても嫌な顔をされる。その理由のひとつは、機種切り替えに時間がかかるため、ひとつだけ作るのは不可能だということである。もっと極端な場合は、板金を1リールセットしたなら全部打ってしまいたいから、最低発注単位は何万個ですよと言われてしまう。

 確かに生産上の経済ロットというのは存在している。しかしながら、段取り替えの改善に着手もせずしておいて、それのロス分を価格に転嫁させようという姿勢に疑問を感じるのである。もしそうであるとしたならば、問題がはっきりするように、部品の価格を明確に分類していただきたい。たとえば、材料費は何gだからいくら、加工賃は何秒だからいくら、そして段取り替えは何分かかるからいくらといった具合にして欲しいのだ。

 このような生産上の原価構造を明らかにしてもらえれば、お互いが何をすればいいのかがはっきりしてくるのではないか。それが、部品の単価に吸収されて、発注する数量によって価格が異なっているだけだと、何が問題なのかが少しも見えないから困ってしまう。
                                     2007年 12月号

 
 
 
第16話 本社機能がきちんと働いていないから
             棚卸しがうまくいかないのだ
 

 本文の冒頭で紹介した会社は、いくつかの工場をコントロールするための本社が存在している。本社には開発部門や営業部門や総務部の他に、資材管理をコントロールしなければならない立場の購買部も設置されている。それにもかかわらず、各工場の資材管理の方法はバラバラで、社員個人のノウハウに依存している部分が極めて多いのだ。

 資材の担当者が休んでも他の人がフォローすることができない。その人が辞めてしまったなら、資材管理業務のレベルが著しく低下してしまう。新入社員が入っても、担当者とマンツーマンで引き継ぐしか方法はない。工場間で人材の交流をしたくて
も、異動した工場には全く異質の体制がある。これでは会社としてのノウハウを蓄積することができないではないか。

 棚卸しにしたって、その結果を集計したものを受け取るだけで、実際に現場で行われている作業の内容は本社の立場として全く把握されてはいない。私は、月に一度の棚卸しが本当に重要だと思ったなら、本社のメンバーを全員各工場に張り付けるようにと言った。工場がモノを作ることによって付加価値を生み出しているのだったなら、間接部門はそれを全面的に支援するといったスタンスを持って欲しいからだ。工場から離れている場所にある本社は、よほど意識して現場に入り込むことをしない
と、やがて「裸の王様」になってしまう危険性をはらんでいるのだ。

                                     2007年 1 1月号

 
 
 
第15話 改善に正解はないから、
          今の条件にいちばん適した方法を導入すればいい


 改善に定石はあっても正解はないと私は常々言っている。定石というのは問題解決のパターンであるが、その通りに進めればすべてがうまくいくなどということはあり得ないからだ。なぜならば、どこの現場にもそれぞれ固有の異なった条件があり、それを解決しようとする人たちの力量も千差万別であるからだ。

 このあたりのことを認識せずにおいて理想の状態をいくら描いみても、そこに到達することができなければ何にもならない。したがって、今できることからひとつずつ解決していこうということになる。システムさえ構築できれば、それで問題は解決するのだと思い込んでいるのもこれと同じことだ。何かトラブルが発生すると、決められたとおりにやらないからだと担当者を責める。

 できないのにはそれなりの理由があるのにもかかわらず、それを解消しようという発想が全然そこにはないかのようだ。現場の改善を進めていくためには、まずは現状をきちんと分析をして発生している問題を認識することだ。そうすれば、それを解決するための方法は複数浮かんでくる。それのどれを採用したらいいのかは実際のところわからないのである。だから、実施する前からこれが正しいのだと決めつけず
に、いろいろな角度から検討してみることだ。これが、経営改善に特効薬はないと言いたいことの背景である。                                                                         2007年 10月号

 
 
 
第14話  簡単に「すみません」と言ってはいけない。 

 日本人の、何かことあるごとに「すみません」という言葉を口にする態度が、欧米の人たちから見たら不思議なことのように写ってしまうようだ。原因をきちんと調査をして、本当に非のあることが明らかになったあとならばまだしも、現象が発生しまだ何もわかってはいない段階であっても、最初に「すみません」と無条件降伏みたいな態度を取ることが問題だと言っているようだ。

 日常の生活をしていく上での、良好な人間関係を築くための配慮としてならまだ意味がわかるのだが、こと仕事の上でのこととなると、あまりにも無責任であり、問題を真剣に捉えていないのではないのかとの受け止められ方をされても仕方がない部分は確かにある。だから、頻繁に「すみません」を口にする人に対しては、その言葉を禁句にすることを約束してもらう。

 他人から何か言われた場合にまず「すみません」と謝ることから出発していた人
が、それを言ってはいけないとなると、代わりにどのような言葉で対応しようとするのであろうか。人によってそれそれぞれ反応の仕方は違うとは思うが、「わかりました」という言葉が最初に口から出た例がいままででは印象深かった。そして、その問題を解決するべく確実に次の行動に移っていった。こんな様子を見ていると、「すみません」は、その人にとっては問題を避けようとするための、防波堤の役目でしかなかったのだ。

                                     2007年 9月号

 
 
 
第13話 購入単位をもっと小さくして欲しいのです。

 在庫の削減活動を進めていくと、調達リードタイムが長いことの他に、部品の購入数量の単位が大きすぎるといった問題に直面する。たとえばある部品を10個しか必要としないのに、100個単位でなければ売ってくれないといった例である。仕方がないので言われるままに調達をした結果、残った90個は捨てる羽目になってしまう。その結果、購入するときの単価は安くても、最終的には原価を押し上げてしまうことになっているのだ。

 長期間保管しておける場合はまだましだ。倉庫のスペースさえ問題にしなければ、いつか必要になる場合があるかもしれない。しかしながら食品工場のような場合はそれが成立しない。いったん封を切ってしまうと、残ったものはその場で捨てるしか方法はない。環境問題がこれだけクローズアップされているのにも関わらず、決して少なくないエネルギーを注いだ加工品が廃棄されてしまうのである。

 確かに生産の立場から見ると経済的に見合う数量というのはあるし、輸送コストも馬鹿にはできない比率を占めている。だからといって、この問題をここで終わらせてしまってはいけないのではないか。今までがこうだったからといった発想をいったん捨てて欲しい。顧客が必要としている数量に応えられる方法だって、みんなの知恵を出し合えば必ず見いだせると思うのだ。
                                     2007年 8月号

 
 
 
第12話 ジャス・トイン・タイムは
         顧客のためにあるのではないのか?
 


 高速道路を走行中にフロントガラスに石が当たり、「ガツン!」という大きな音がした。そこには、小さいけれど蜘蛛の巣の形をしたヒビが入ってしまっている。自動車を購入したディーラーに持って行ったところ、ヒビが裏面まで及んでしまっているから、放っておくと進行していくため危険だという。そこで、フロントガラスを交換してもらうことになった。

 「部品の納期を確認しますが時間がかかるかもしれません」とディーラーの担当者に言われた。それでも、私が車を購入したのは2年半前で、型式も古くはなっていないから、そうはいっても翌日くらいには回答があると思っていた。しかし、待てど暮らせど連絡が入ってこなかった。「修理に2日間必要です」と言われたから、どうやって車を空けようかと思案していたのに、そんな私の気持ちはどこかで空回りしていたようだ。

 ジャス・トイン・タイムとはいったい何なんだろうかと考えることがある。この車を購入したときも確か2ヶ月以上待たされた。今回なんか、走行中にフロントガラスが割れてしまったなら大きな事故につながってしまうのに、このような現実と生産との同期までは取れてはいないようだ。結局、納期の回答が遅くなってしまったため、2日間のスケジュールを確保することができないことも手伝って、修理したのはそれから1ヶ月後になってしまった。                                   
                                     2007年 7月号

 
 
 
第11話 改善現場には社長も立ち会ってもらおう!


 現場で「ムダ取り」を実施する場合は、その作業をはじめから最後まで実際にやってもらい、それを横にいて観察することにしている。ある製品の製造原価が高すぎるとか、作業に時間がかかりすぎるとか言われても、その原因がわからない限り対策案を打ち出すことが出来ない。まずは事実を客観的に把握することが必要であり、それから総合的な判断をしようと思うからだ、

 中小企業の場合は、できるだけ社長にその場に立ち会ってもらう。なぜかという
と、現場がよかれと思って実施したことが、社長の一声でひっくり返ってしまう例を何回も見てきたからだ。こういった場合、改善がストップしてしまうだけならばまだいい。困ってしまうのは、担当者が新しいことにチャレンジしなくなってしまうことが十分考えられることだ。担当者の実力が向上して、何が正しいのか正しくないのかの判断が出来るようになればなるほど、そのダメージは大きなものになってしまう。

 経営数字というのは、日々の行動の積み重ねの結果である。数字としての実績が伴わないのは、そのプロセスに問題があるのにもかかわらず、なかなかそこまで入り込もうとせず、短絡的にいい悪いの判断をしてはいないだろうか。そんな社長のもとでは、失敗のリスクを恐れるあまり、チャレンジしようとする社員がいなくなってしまうのである。
                                     2007年 6月号

 
 
 
第10話 くたばれ!今までの役に立たないISO。
 

 私が初めてISOと出会ったときに感じたことは、こんなものを各企業が導入したならば、日本の国は滅んでしまうのではないかという危惧であった。審査の場で審査員が質問する内容が、品質マニュアルや規程類のどこかに表現されていれば、その場での審査はクリヤーできた。意味があるのだかないのだかわからない記録を、取り続けなければならないことにも抵抗があった。ISOの運用をきちんとしていれば品質が向上するなどという幻想は、私の場合は最初から抱いてはいなかった。

 何よりも心配だったのは、企業の運営が建前論中心の、事実に根ざしていない、形式的なものになってしまわないかということだった。毎日繰り返して実行されている本質とはかけ離れた行動から、意識さえもが現実を直視しないものになってしまうのではないかと思っていた。

 そしてその危惧や心配は現実のものとなってしまった。私は、ISOがこうなってしまった責任はむしろ企業の側にあると思っている。自分たちの生活がかかっている品質問題に対して、どこかで妥協してしまったことがありはしないかということだ。ISOに振り回されること自体主体性のなさの表れだ。今、社会問題とまでなっているISOのあり方を、ここできちんと問い直さなければならないのではないだろうか。

                                     2007年 5月号

 
 
 
第9話 品質保証部の担当者は
           誰から給料をもらっているのか?
 

 自分の給料はどこから出ているのかなどと考えてみたことがあるだろうか。会社から出ていることには間違いないが、その原資は何によって生み出されているのかということである。つまり、自分自身の付加価値生産性を、一度追求してみて欲しいのだ。

 会社が存在すれば必然的に品質保証部は必要だから、製品の価格に上乗せされていますなどという答えでは、このテーマの本質を突いているとは言えない。うがった見方をすると、不良が発生することによって新たな仕事が生まれるのだから、不良が多いことが、そしてその処理をすることが存在価値であるなんてことになってしま
う。不良が多いことが歓迎される品質保証部であっていいはずがない。

 それでは、設計や製造部門が品質保証部の給料を賄ってくれるのであろうか。もしそんな構図が成立するとするならば、設計も製造も経費負担を少しでも軽くするために、品質保証部には依存せずに不良に対処していくであろう。すでに組織が出来上がっているから、品質保証部に何かを依存しているだけである。

 品質保証部の任務は不良をなくすことである。それは、不良が減ることによって、自らの存在も縮小されていかなければならないことを意味している。いつかは消滅させるべき組織の一員であり、それに向かって努力しているのだなんて考え方ができれば、もっと日常の行動の質を問い直さなければならないはずだ。

                                     2007年 4月号

 
 
 
第8話 張り詰めた雰囲気が
          緊張感なのか萎縮なのかを見抜け!
 

 私が少しずつ改善の成果を上げはじめると、「もっと厳しくやれば結果が早く出るのに」といった声が、外野から聞こえてくるようになる。ではその声を発した人が何をやっているかというと、相も変わらずビジョンを伴わない仕事を部下に押しつけているだけだったりする。きっとその人は、自分は仕事に対して厳しい態度を取っているのだと思い込んでいるのだろう。

 緊張感が維持されている職場と、社員が萎縮してしまっている状態とが、一目見ただけでは判別することができないから困ってしまう。緊張感は、テーマなり目標が現実の行動と一致しており、何が何でもそれを達成しようとする気持ちが職場に充満することによって生まれるのに対して、萎縮は、表面上はやる気を見せてはいるがそれが本心からのものではないから、体裁を整えるために作り上げてしまっている雰囲気である。

 緊張感も萎縮も、それが醸し出される元を作っているのは、その職場の部門長の姿勢なのだ。ところが、萎縮の場合は、その部門長には都合のいい部分しか伝わってはこないから、社員が抱え込んでいる問題がなかなか見えてはこない。そして、仕事の上では何ら実力を身につけてはいないイエスマンが闊歩しはじめ、それが機能的な組織作りを疎外していく。だから、部門のトップは、自らの「厳しさ」の質を問い続けなければならないのだ。
                                     2007年 3月号

 
 
 
第7話 コンピュータにへばりついていれば
                    仕事が進むのか?
 

 情報伝達の手段として社内にコンピュータを使ったメールの体制が整えられた当時は、なんて便利なものが導入されたのだろうかと思ったものだ。それまでの紙を使った方法に比べ、自分の机に居ながらにしていろいろな処理が出来ることは画期的なことであった。しかしながら、次第にメールの数が増えていくに従って、届いているメールを小刻みに開かないと仕事が処理できなくなってしまった。

 その結果、ほとんどの間接作業の人たちが、自分の机に備え付けられたコンピュータに向き合っている場面が当たり前の光景になってきた。ソフトウエアを作成した
り、CADを使って図面を描く作業ならわかるのだが、それ以外の人たちまでみんながコンピュータの画面を睨んでいて、本当に仕事が進んでいるのだろうかと疑問を抱くのは果たして私だけであろうか?

 私が懸念しているのは、ひとつは管理者が現場に足を運ぶ回数が減ってしまうのではないかということ。もうひとつは、端から見て仕事が「進んでいる」かどうかが見えなくなってしまっていることである。コンピュータは仕事を実行する上でのツールでしかないのに、コンピュータが主人公になってしまっており、コンピュータに向き合っていれば、いかにも仕事をしているような雰囲気を醸し出せてしまうのも困ったこと
だ。
                                     2007年2月号

 
 
 
第6話 在庫状況を見ながらの営業はやめてしまえ!

 ある会社の「在庫管理システム」は、営業サイドが工場にある製品の在庫状況をイントラネットで見られるものであった。ところが、受注生産に切り替えていくにしたがって、そこに表示される製品の在庫数量が極端に少なくなり、次第にゼロを示すものが増えていった。それが、営業にとっては不安材料のひとつになっているというので、在庫数量の提示そのものを廃止してしまった。

 在庫数が示されていると、必ずそれを予約しようという動きが起こる。まだ受注が決まってもいないのに、在庫品を自分の分として確保しておこうとするのだ。その結果、製品在庫はいっぱいあるというのに、実際に出荷できる分がなく、緊急で製造しなければならないような事態が発生する。このことも、本当の顧客の希望納期をぼかしてしまっている一因になっていた。
 
 在庫数量を営業に対して開示しないのは、どんな納期に対しても対応できる工場にしますという宣言である。受注生産に近くなるにしたがって、市場の変動の波にもろにさらされることになるが、それを受けて立つことができる強い工場にしていきたいのである。そのためには、市場の要求を加工することなく工場に伝えてもらうことが、体制構築のための第一ステップになるのである。
                                     2007年1月号

 
 
 
第5話  言い訳をしていたのでは「納期」など守れない!

 私ごとで恐縮であるが、この9月に単行本を出版した。出版の企画が会議で正式に決まったとき、私は癌の手術をするために病院に入院していた。1ヶ月も仕事を休むのだから、執筆をする時間は十分とれるだろうとそのときは思ったのだが、闘病生活はそんなに甘くはなく、何も出来ないまま日々が過ぎていった。

 編集担当者から「森田さんの意気込みを聞かせてください」と連絡があったのは、原稿締め切りの1ヶ月半前だった。もし無理ならば、9月の刊行を延期しなければならないというのだ。私自身の原因によりみんなに迷惑をかけたくはなったから、「何とかします」とそのときはお答えした。しかしながら、逆算していくと、1日に3テーマずつ仕上げていかないと納期を守ることが出来ないことになる。

 その日の仕事が終わると車で200kmほど移動し、着いたホテルで夜中までパソコンと向き合うことになった。母が入院した病院で付き添いにあたったときには、暗い待合室の照明の点灯を1カ所だけ許可をしてもらい、眠い目をこすりながら自分で決めたノルマを消化するまでは眠りにつくことはしなかった。その母の病状も悪化し、葬式では喪主としてすべてを仕切らなければならない立場であった。

 言い訳をしようと思えばいくらでも出来たし、まわりの人は認めてくれただろうけれど、それをしてしまえば自分自身の存在価値はそこでなくなってしまうと思った。なぜならば、納期は守るためにこそあるのだから。
                                     2006年12月号

 
 
 
第4話 「強者の論理」になってはいけないのだ!


 ネジの問屋さんに勤めていた友人が、今日の午後1時に納品する商品だといって見せてくれたものは、ビスが5本ずつ袋詰めされたセット品がたったの20袋だけだった。「いつもこんな状態なのかい?」と質問すると、「これはさすがに少ない方だけれど、こういった形態のものを1日に4回納入するパターンになっている」との答えだった。

 「それで利益が出るの?」と次に質問すると、「その会社は地元では大手だから、取り引きをしてもらえるだけでありがたい」との回答が返ってきた。小刻みな納入に対するコストアップ分を価格に反映させているわけではないから、そのネジ屋さんだって利益を出さなければならないとなると、その大手の会社でロスしている分をどこかで補填しなければならなくなってしまうはずだ。

 このように、独りよがりの生産システムになってしまってはダメなのである。供給先や外注先も、生産場所が違っているというだけで工程としては全部つながっている。ある部分だけの最適を図るだけでなく、全体を通した最適の条件を追求していかないと、本当のコストメリットは見いだせないはずだ。とかく「強者の論理」というのは、どこかにしわ寄せを生じさせてしまうことを、肝に銘じなければならないのだ。

                                     2006年11月号

 
 
 
第3話  管理はムダ、
        管理はしないようにするのがいちばんいい!


 工場が掲げるスローガンの中に、「管理能力の向上」などというものがある。そのためには、社員に基礎能力を身につけさせなければならないから、教育のカリキュラムが必要だとの方向付けがされる。そして、いろいろなセミナーに参加させたり、社内で講習会を企画したりして働きかけをしていくのだが、それがちっとも身につかないなどと嘆げいていることはないだろうか。

 「管理はムダだ」と定義することができれば、実体の伴わないスキルなど身につけさせようとはしないのだろうに、曖昧なものをすべて解決させるためには「管理」が必要になってきて、それには一定の技能がなければできないなどと発想してしまうと、仕事はだんだん難しくなりときには泥沼にはまってしまうようなことにもなりかねな
い。

 いつも、「管理」をしないようにするためにはどうすればいいのかといった視点で、身の回りに起きている事象を眺めてみよう。近くに寄って見つめてしまうのでは全体像は把握できないから、少し遠くから客観的に眺めてみるのである。事実がきちんと実態となって現れるようにすれば、誰だって判断できるようになる。その条件を作り出すためには、「管理」などという不確かな表現は今後使わないようにすることである。

                                     2006年10月号

 
 
 第2話 手段と目的を履き違えてはいけない!

 会社を長く休んでいた人に対して、「もうあなたの机はなくなっているんじゃないの?」などという冗談を言うことがある。そのくらい、個人机というのは、会社の中に築き上げたその人の領分みたいな存在になっている。したがって、その個人机を撤廃するなどという提案をすると、みんなが顔色を変えて反対してくるのだ。

 ある会社で、生産現場に立ち作業を導入するときに、それに同期を取るかたちで間接部門の人たちにも立ち作業を押しつけたケースがあった。社員全員が改善のポリシーを精神的に共有する目的としては有効な部分もあるかもしれないが、座ってやった方が効率がいい作業まで立たせてやらせるのは、ムダ取りの範疇を越えてしまっている。

 立ち作業というのは手段であってそのこと自体が目的ではないと同じように、個人机を撤廃するのも問題を顕在化させるひとつの方法なのである。管理者が、部下に対してなぜ実施しなければならないのかを説明し納得させられないようだと、このようなダイナミックな展開は必ず失敗してしまう。

 何事も現状維持の方がはるかに楽であるし、まわりに対して波風を立てることをしなければ、毎日を平穏に過ごすことができるのかもしれない。でも、その波風をわざわざ発生させないと、固定化してしまった現状を変えていかれない場合が多いのだ。

                                     2006年9月号

 
 
 
第1話 調達条件の見直しを断行すべし!

 コンビニエンスストアができてから、モノを買う立場の人たちの価値観が変わってきた。まず、生活にとりあえず必要なモノはほとんど取り揃えられていること。あの小さな店舗にいろいろなアイテムがぎっしり詰まっている。次に、24時間いつでも欲しいものが手に入ること。そして、飴玉1つの単位でも買えること。たとえその単価が10円であったとしても、「100円分まとめて買ってください」とは言われない。

 コンビニがここまで普及したのは、お客さまがそれまで抱えていた要求に応えることができたからだ。つまり、「欲しいモノを、欲しいときに、欲しい数だけ購入したい」顧客の要求に合致した営業形態なのである。部品メーカーがなぜそれに取り組まないのだろうか? セットメーカーと部品メーカーとの関係はいつまで経っても形としては売り手市場で、お金を払っている側が自分たちの希望を受け入れてもらうために、お願いしながら調達しているという変な現象が起きている。

 これを突き崩す方法は1つしかない。部品のアイテム単位でどこかの1社が、従来の販売方式を顧客主導型に切り替え、それを実現できる生産方式を取り入れることである。そのためには、乗り越えなければならない壁がいくつもあるが、そのことに挑戦する部品メーカーが出現することを切に望んでいる。
                                     2006年8月号