やることに
  意味を
   持たせよう



 ある会社の朝の風景である。管理者が玄関に立ち、出社してくる社員に向かって挨拶をしている。声をかけられた社員は、その呼びかけに対してだいたいの人が挨拶を返している。ここではこの活動のための管理者のローテーションが出来上がっており、1週間に1回その当番が巡ってくるようになっている。その中のひとりの管理者から、こんなことを「強制」するのはおかしいのではないかとの相談が私にあった。
 
 私もこういった活動は嫌いな方ではない。新入社員教育の時など、社員通用口に全員を並ばせて大きな声で挨拶をさせたりした。それは、それだけ挨拶を重要視しているから、そのことを行動として身につけさせたかったし、あたりまえに挨拶ができる職場づくりをしたかったからである。当然その場には管理者も参加し、新入社員と一緒になって声を張り上げたものである。
 
 それではその会社の社員がどう感じているかどうかをヒヤリングさせていただいた。すると驚いたことに、ほとんどがその行動を否定するものばかりであった。「朝から気分が悪い」、「監視されているようでいやだ」、「挨拶を投げかける管理者と、その場でたばこを吸っている一般社員とがごちゃ混ぜになっている」などなど、それは痛烈な批判が帰ってきた。会社がよかれと思ってやっていることが、かえって逆効果になっているのである。
 
 こういった活動をする目的は何かと、別の管理者のひとりに訊いてみた。
  ① 社員間のコミュニケーションを図りたい。
  ② 会社全体をまとまりのあるものにしたい。
  ③ 仕事を開始するにあたりやる気を出して望んで欲しい。
  ④ 自然に挨拶ができる状態を作りたい。
それぞれ願望としては素晴らしい内容である。しかし、社員の声を聞いてみるに、どれひとつ取ってみても効果が現れているとは言えない。この会社でも、手段が目的になってしまうよくありがちな過ちを犯してしまっているのである。
 
 挨拶は、素直な気持ちになれないとなかなかできないものだ。相手に対して何らかのわだかまりがある場合は、誰だって心の中から声を発することができない。たとえ無理矢理挨拶をしたとしても、表情のどこかが堅くなってしまう。あたり前に挨拶のできる職場とは、普段のコミュニケーションがうまくいっている職場のことである。ここで間違えないでいただきたいが、挨拶を「強制」させることからはよりよい人間関係は生まれない。
 
 職場におけるコミュニケーションを確立するには、問題が発生したときの対応の積み重ねが重要ではないかと思っている。言い換えれば、上司が上司としての機能をきちんと発揮しているかどうかが問われてくるのである。何らかの問題が発生した。自分では処理できずに上司に報告し相談したとする。そこで、事実をきちんと認識した適切な判断が帰ってくるなら、そこで納得できるはずである。そういったことの繰り返しが、やがて信頼関係となって定着する。逆に、まったくポイントのはずれた指示が帰ってきたり、報告した人に責任を転化してしまうようなことが頻繁に起きるようだと、上司に対して懐疑心しか生まれなくなってしまう。
 
 会社や部門に何か問題がある場合、それはトップに問題があるからだと思わなければいけない。それを社員に問題があるとどこかで思っていると、やることに意味を持たない行動を展開してしまうのである。先日お邪魔した大手メーカーの社長が私に対してこうおっしゃった。「このような状況になっているのも、すべて私に問題があるからであり私自身に責任があります。現場改善だけでなく、経営陣に問題があるようでしたらどんどん指摘してください」と。このような受け止め方ができる社長がリードしている会社は、短期間のうちにどんどん変わっていくはずである。
                                       (2001.12)