危機感は     
      どこから
 生まれるのか



 日本の従来の企業文化が作り上げた環境からは、なかなか危機感が生まれにくいのだろうか。外部から見るとこのままではどうしようもないではないかと思うことでも、その企業に所属している社員の方々からは危機感なるものが微塵も感じられないことがままある。それではなぜそうなってしまうのであろうか。

 ひとつは責任が希薄なことである。サラリーマンの置かれている立場上無理もないことではあるが、数字として掲げた目標が果たせなくてもすぐに職を失うことはない。だから必死さが足りない、なかなか全力投球しようとはしない。何か問題にぶつかった場合、できない理由が先に飛び出したり、自分以外の人たちに対する愚痴が口をついて出るようでは、まだまだ甘えられる環境にあるということ
だ。
                  
 ふたつめは組織の壁が万里の長城になってしまっていること。一時流行したラインカンパニー制度が組織の柔軟性を喪失させたように、機能別の使命を抱えている部門が、機能別であるが故に責任を負わなくてもいいような錯覚を抱くようになってしまっている。その結果、会社の事業に対する責任を分かち合おうとしないばかりか、他部門の失敗を歓迎するような風潮が生まれているとするなら、それはもう企業としての基本的な能力さえ喪失してしまっていると言える。

 みっつめは顧客の立場に立った考え方ができていないこと。商品を選択し、それを購入してくれるのは顧客であることなんかわかり切っているのに、いろいろなことについて自分の都合が優先されている。したがって市場の流動性なんかには目が向かないから、自己変革をしようとはせずいつまでも古い体質にしがみついている。そんな会社に何か新しい問題提起を提起すると、被害者意識ばかりが蔓延しはじめる。

 よっつめはライバル他社が見えていないこと。仮に今まで順調にやってこられたとしても、これから先いつまでもこの状態が続くという保証はない。むしろ、その会社よりも業績が悪かった会社ほど努力をしているだろうから、何もしなければすぐ追い越されてしまう環境にあるのである。ライバル他社が見えないと、そのときの状況にいちばん合ったつまり的を射た対応が出てこない。理論が優先してしまったり、たてまえ中心の対策をいくら具体化しても、それは有効な武器にはなり得ない。

 危機感を自分の中に生み出すためには、自己責任を徹底して追及してみること。問題を他部門や他人のせいにせず、すべて自分の責任に置き換えてみる。別に萎縮しろといっているのではない。問題を全部抱え込み身動きができないようになれと言っているのでもない。要は、発想を客観的にとらえた事実から発生させること。事象に対する切り口の選択を自分の立場に置き換えた位置から行うこと。それでも危機感が生まれないようであるなら、企業活動に参加する資格などない。
                                       (2002.6)