改善に対する
    強制力



 私が工場の改革推進担当をやっていた頃は、新しい生産方式を導入することに対する反発がすごかった。まだ設立されて間もない工場であるから、固定概念はさほど固まってはいないと思うのだが、できない理由なのかやりたくない理由なのかははっきりしないが、とにかく抵抗が大きくて運営がたいへんだった。「反発があるのはそれだけ新しいことをやろうとしているのだ」と割り切って推進していたのであるが、どこかすっきりしない気持ちをずっと持ち続けていたし、指導していただいていたコンサルタントの先生にはご苦労をおかけしたと思う。
 
 立場が変わって、こんどは私がいろいろな工場にお邪魔しているわけである
が、意外に反発とか抵抗が少ないことに驚いている。もちろん私は「社外の人」であるから、いろいろな波をまともには受けていないことははっきりしているが、対象職場の雰囲気やそこの管理者の意志くらいは把握することができる。私が捉えているのは表面の現象だけだよと言われれば返す言葉がないが、現場のみなさんとは徹底して議論を交わしているから、私の認識がそんなに的はずれではないと思っている。
 
 最近私に声をかけてくれるのは現場の責任者である生産部長とか製造部長とかいった立場の方。そういった方々から一度工場を見て欲しいとの連絡がある。工場診断をさせていただいた後、私の分析と提案が上申され、そこではじめて会社として受け入れられることが決定する。したがって、改善を進める条件のひとつを経営トップがあてがってくれたのではなく、現場の責任者自らが希望して設定したことになる。このようにその現場として必要性に駆られた上での取り組みであるから、私の提案と噛み合い活動も定着するのは当然のことなのかも知れない。
 
 ある程度の、いやかなりのウエイトとして、改善の実行には強制力が必要である。自主性を重視することも大切なことではあるが、結果をしかもかなりスピードを上げて出さなければならないとなると、誰かが進捗をコントロールしないと計画通りにことは進まないものである。ただ、その強制力も上からの押しつけだけでは長続きがしない。強制力はあくまで実行することに対してであって、なぜ実行するのかという「目的」をみんなが共有していないと、活動は上滑りなものになってしまう。
 
 つまり、上司としては強制力であるが、部下の立場から見ると必然性である、そんなかたちが望ましい。強制力とは鞭をふるうことではないし、首に縄を巻いて引っ張っていくことでもない。要は「目的」を徹底して追求していくこと。そうすれば意識のレベルも「した方がいい」から「しなければならない」に自然と変わっていくはずである。反発とか抵抗が少ないと私が感じるのは、きっとそんな舵取りがうまくできているからであろう。  
                                        (2002.2)