改善に
  正解はない



 人一倍記憶力の弱い私は、歴史の年号とか数学の公式を覚えるのが苦手だった。進学したのは工業高校の電気科であったから、公式を覚えなければテストでいい点数はとれない。それがわかっていながら、公式を覚える努力はまったくしなかった。そればかりか、教科書を見ればそこに書かれているものを、わざわざ覚えなくたって実務上は支障がないではないからと、テストのときも、公式を使わずに答えを導き出すことに挑戦したりしていたから、当然学校の成績は惨たんたるものであった。
 
 小学校の頃のテストは、答えが間違っていても、そこに至るプロセスが正しければ、満点とはいかなくてもある程度評価をしてくれた。ところが、学位が上に行くにしたがって、最終的な結論しか認めてくれなくなってきた。途中どんなに努力をしても、結果が正解でなければ点数は1点ももらえない。さらにマークシートの導入により、考えるプロセスも、問題点の分析も、理論を組み立てる過程も、みんな表面には出てこなくなってしまった。考えてみればおかしなことだが、マークシートの小さな枠を塗りつぶした場所により、その人「能力」が評価されてしまうのである。
 
 企業も問われるのは結果である。結果が伴わなければ経済活動が維持できない以上、それは仕方のないことである。ただ、マークシートのような無機質なものになってはいけないと思っている。なぜならば、その瞬間の結果だけでなく、企業には継続性が求められているからである。企業は、利益を永遠に出し続けなければならない宿命のもとに存在している。
 
 「改善に正解はない」と、私はよく言っている。囲碁の定石のように、進め方や手法についての一定の教科書は必要であるが、それにすべてを当てはめられるものではない。なぜならば、現実はきわめて多様で、ちょっと切り口を変えただけで、何種類もの展開が見えてくるものだからだ。あのQCストーリーだって、それにそって進めれば問題解決がしやすいだろうというだけ。QCストーリーに適合しているかいないかが評価の対象になり出すと、本来の目的がどこかに行ってしまう。
 
 改善の方法としての正解は、「向上」という結果にたどりつくことができた進め方である。ただし、それも正解にいちばん近いという位置づけにすぎない。手段はいろいろある。そのなかのどんな方法だっていい。それくらい柔軟な発想を持ちたいのだ。私は常々そう思いながらみなさんと向き合っているから、時々新鮮な感動に出会う。私が考えていたストーリーと、まったく異質の展開が結果を出すことがある。そのことによって、私はずいぶんと勉強させられることが多い。
 
 なかなか改善が進まないと、「いろいろ言ってないで、私の言うとおりにやってみろよ!」と口では言いながらも、それを聞いている人たちの目の奥で光る輝きを見逃さない。短期間に結果を出すことを目指しながら、日々のプロセスを大事にしていく。それが、最終的にはその会社にとつて、いちばん必要なことだと思うからだ。  
                                       (2001.6)